オペラ・エクスプレス

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年柄年中オペラ漬け。<オペラ暦>2016年7月—新井巌(あらいいわお)

オペラ暦7

【目次】

【7月1日】黄昏のウィーンを描いた『アラベッラ』初演の日。

●1926年、ドイツの現代作曲家ヘンツェ(ハンス・ヴェルナー・-2012)が、ギュータースローで生まれています。現代作曲家としては、オペラも多作で20曲以上も書き、ラジオ・オペラ『村医者』や、『若い恋人たちへのエレジー』『バッカスの巫女』、さらには三島由紀夫の『午後の曳航』(オペラ題名『裏切られた海』)をオペラ化するなど、作風も多様な変化をみせています。2000年には高松宮殿下記念世界文化賞音楽部門も受賞。
●1933年、シュトラウス(リヒャルト・1864-1949)『アラベッラ』が、クラウス(クレーメンス・1893-1954)の指揮によりドレスデン国立歌劇場で初演されています。ホフマンスタール(フーゴ・フォン・1874-1929)の小説『ルチドール』をもとに脚色し、没落しつつある19世紀ウィーンの雰囲気を、この初演時代に反映させた名作オペラです。
●1964年、フランスの指揮者モントゥー(ピエール・1875-)が、メイン州ハンコックで亡くなっています。ディアギレフ(セルゲイ・1872-1929)が率いるバレエ・リュスの指揮者として、ストラヴィンスキー(イーゴリ・1882−1971)やラヴェル(モーリス・1875-1937)の数々の名曲を初演。戦後はアメリカに渡りMETでも活躍し、温和な人柄で多くの人から愛されていました。(誕生日の4月4日の項参照)


【7月2日】オペラの改革者グルックの誕生日。

●1714年、オーストリアの作曲家グルック(クリストフ・ヴィリバルト・-1787)が、エラスバッハで生まれています。彼は、従来のアリア中心の歌手本位のオペラから、ドラマ性を重んじた作風を目指し、その後のオペラの発展に大きな影響を与えました。グルックのオペラといえば『オルフェーオとエウリディーチェ』のみが有名ですが、他の作品にももっとスポットが当って欲しいものです。
●1778年、フランスの哲学者で「社会契約論」などを著したルソー(ジャン=ジャック・1712−)が、パリ郊外で亡くなっています。彼は音楽家としても才能を発揮し、彼のオペラ『村の占い師』は、フォンテヌブローで初演され、以来60年間に400回以上も上演されたほど大ヒットしたコミック・オペラでした。ディドロ編集の「百科全書」の音楽関連の項目も彼の手によるもの。
●1911年、オーストリアの指揮者モットル(フェリークス・1856-)が、ミュンヘンで亡くなっています。バイロイト祝祭歌劇場の杮落とし公演に参加し、以後熱烈なワグネリアンになり、コヴェントガーデン、METなど欧米各地でワーグナーの作品を指揮しました。バイエルン国立歌劇場(現)での100回目の『トリスタンとイゾルデ』を指揮中に心臓麻痺をおこし、この日亡くなったのです。彼の編曲と演奏で『トリスタン』のピアノロールによる録音が、YouTubeで聴くことができます。
●2007年、アメリカのソプラノ歌手シルズ(ビバリー・1929-)が、ニューヨークで亡くなっています。少女時代から子役や歌手として活躍し、クラシックの歌手としてデビューする際に、本名のシルバーマンとビバリーヒルズを掛け合わせて芸名にしたといいます。世界各地で活躍したのち、晩年はMETも含むリンカーン・センターの会長も務め、METの第1回ライブ・ビューイングでは解説者として出演していました。


【7月3日】カリスマ指揮者“カルロス”誕生。

●1854年、20世紀東欧の最大のオペラ作曲家ヤナーチェク(レオシュ・−1928)が、フクヴァルディで生まれています。『イェヌーファ』をはじめ、『利口な女狐の物語』『カーチャ・カバノヴァー』『マクロプロス事件』など多くのオペラを生み出しています。
●1930年、カリスマ的指揮者クライバー(カルロス・-2004)が、ベルリンで生まれています。20世紀を代表する指揮者の一人エーリヒ・クライバー(1890−1956)を父に持ち、その偉大すぎる父を持ったためにスタート当初は不遇だったとも。キャンセルすることでも有名ですが、日本公演では『ばらの騎士』や『ラ・ボエーム』など、圧倒的な演奏を聴かせてくれました。大部の評伝A・ヴェルナー著『カルロス・クラーバー(上下)』(音楽之友社刊)では、彼の数奇な生涯を余すところなく描いています。
●1939年、ドイツのメッゾ・ソプラノのファスベンダー(ブリギッテ・)が、ベルリンで生まれています。バイエルン国立歌劇場など、主としてドイツ、オーストリアの劇場で活躍し、オクタヴィアン、ケルビーノ、オルロフスキー公爵などが当たり役でした。


【7月4日】日本のカルメン歌手のご命日。

●1911年、イタリアの指揮者モリナーリ=プラデッリ(フランチェスコ・-1996)ボローニャで生まれています。1946年、再開して間もないミラノ・スカラ座で『トスカ』を振ってデビューし、その後コヴェントガーデン、METなどでも活躍。当時全盛だったテバルディ(レナータ・1922-2004)やデル・モナコ(マリオ・1915-82)などとの共演も多く、絶頂期の名歌手たちとのCDが残されています。
●1982年、日本を代表するメッゾ・ソプラノ佐藤美子(よしこ・1909-)が、神奈川で亡くなっています。パリにも留学し、帰国後は『カルメン』日本初演を果たして、その後も同役を得意とし、日本のオペラ創生期に活躍した功労者でもあります。創作オペラにも力を注ぎ、創作オペラ協会の会長も務めていました。(誕生日の5月25日の項参照)


【7月5日】マルチな天才、J・コクトー誕生。

●1889年、フランスの詩人・劇作家コクトー(ジャン・-1963)が、パリ近郊の小さな町メゾン=ラフィットで生まれています。詩や劇作だけにとどまらず、映画『美女と野獣』を監督するなどマルチに活躍した芸術家でした。ストラヴィンスキー(イゴール・1882−1971)の『エディプス王』やミヨー(ダリュス・1892-1974の『哀れな水夫』などの台本を書き、彼の戯曲からはプーランク(フランシス・1899−1963)の『人の声』や、オネゲル(アルチュール・1892−1955)の『アンティゴーヌ』が生み出されています。
●2010年、イタリアの名バス歌手シェピ(チェーザレ・1923-)が、アトランタで亡くなっています。ザッカリーア、フィリッポ2世などヴェルディのバス役などを得意としていましたが、フルトヴェングラー(ウイルヘルム・1886−1954)指揮の『ドン・ジョヴァンニ』のタイトルロールは最高の当たり役でした。METでも活躍し、18の役柄で488回の出演記録を果たしたといいます。


【7月6日】たまには台本作者にもご注目。

●1829年、イタリアの歌劇作曲家ドニゼッティ(ガエターノ・1797−1848)のオペラ・セリア『ケニルワース城のエリザベッタ』が、ナポリのサン・カルロ歌劇場で初演されています。
●1897年、『カルメン』の台本作者の一人メイヤック(アンリ・1831—)が、パリで亡くなっています。本来は、オペレッタが得意でオッフェンバック(ジャック・1819-80)『美しきエレーヌ』『青ひげ』『ジェロルスタン女大公殿下』『ペリコール』などは、すべてアレヴィ(フロマンタル・1799-1862)との共作。他にもマスネ(ジュール=エミル=フレデリク・1842−1912)『マノン』を、ジル(フィリップ・1831-1901)との共同で作っています。
●1919年、日本にもたびたび来日したスイスのテノール歌手ヘフリガー(エルネスト・-2007)が、ダヴォスで生まれています。主としてベルリン・ドイツ・オペラで活躍し、モーツァルトなどを得意とするほかバッハのオラトリオなどでも定評がありました。ドイツ語で歌った日本の歌曲集もリリースされています。
●1973年、20世紀を代表するユダヤ系ドイツ人の指揮者クレンペラー(オットー・1885-)が、チューリヒで亡くなっています。日本ではコンサート指揮者としてのイメージが強い彼ですが、若き日のケルン歌劇場音楽監督時代には、コルンゴルト(エーリヒ・ヴォルフガング・1897-1957)の『死の都』、ツェムリンスキー(アレクサンダー・1871-1942)の『こびと』などの初演を行うなど、革新的なオペラを数多く指揮しています。(誕生日の5月14日の項参照)
●1987年、戦前から戦後にかけて活躍した指揮者の金子登(1911-)が、神奈川で亡くなっています。47年からは神奈川フィルの常任指揮者を務めていました。戦前はヨーロッパに渡り、クラウス(クレーメンス・1893-1954)、ベーム(カール・1894-1981)などにも師事。戦後は長門美保歌劇団などでオペラを指揮しています。東京芸術大学名誉教授。


【7月7日】なぜオペラを書かなかったのですか?マーラーさん。

●1860年、オーストリアの作曲家マーラー(グスタフ・−1911)が、カリシュトで生まれています。ウィーン宮廷歌劇場の総監督という指揮者として最高の地位に登りつめた彼ですが、作曲家としてはあまり認められず、「やがて私の時代が来る」と豪語したマーラーは、その予言通り現在では作曲家として不動の地位を築いたのです。また生前、あれほどオペラの指揮をとり、オペラの改革にも情熱を燃やした彼が、なぜ1曲もオペラを残さなかったのか?これは永遠に解けない謎のようです。(ただし、ごく初期の習作的なオペラは書いています)(亡くなった5月18日の項参照)
●1911年、アメリカ代表する(出生はイタリア)作曲家メノッティ(ジャン=カルロ・−2007)が、ガリデアーノで生まれています。裕福な家庭で育った彼は、12歳の時にはオペラを書くなどの早熟な少年でした。ミラノのヴェルディ音楽院で学び、トスカニーニ(アルトゥーロ・1867−1957)の勧めでアメリカへ渡り、その後『泥棒とオールドミス』『霊媒』『アマールと夜の訪問者』『ブリーカー街の聖女』など数多くのオペラ作品を残しています。


【7月8日】演じた役柄が多かった名ソプラノ、ゴルツ。

●1912年、50年代に活躍したドイツのソプラノ、ゴルツ(クリステル・-2008)が、ドルトムントで生まれています。戦後はウィーン国立歌劇場のメンバーとなり、ここでの役柄は28にのぼり、480もの公演に出演。そのほかにも多くの欧米の歌劇場に招かれ、62年には初来日し『サロメ』の日本初演を果たしています。


【7月9日】現代オペラで蘇った『リア王』

●1879年、『ローマ三部作』で有名なイタリアの作曲家レスピーギ(オットリーノ・-1936)が、ボローニャで生まれています。彼は、若い頃ペテルブルクの王立歌劇場のヴィオラ奏者となり、リムスキー=コルサコフ(ニコライ・アンドレイエヴィチ・1844−1908)やブルッフ(マックス・1838-1920)の知己を得ます。主として彼は管弦楽の人でしたが、未完のものも含めオペラは9曲を残しています。(亡くなった日の4月18日の項参照)
●1978年、ライマン(アリベルト・1936-)『リア王』が、バイエルン国立歌劇場で初演されています。いうまでもなくシェイクスピアの原作をオペラ化したもので、ミュンヘンの音楽祭の際に初演され絶賛を博しました。


【7月10日】『カルミナ・ブラーナ』だけではないオルフ。

●1895年、オルフ(カール・-1982)が、ミュンヘンで生まれています。彼の代表作といえば、まず指を屈するのが世俗カンタータ『カルミナ・ブラーナ』ですが、オペラ作品も『月』『賢い女』『ベルナウの女』などの名作も残しています。(亡くなった日の3月29日の項参照)


【7月11日】名歌手、名指揮者の誕生日。

●1925年、20世紀後半に活躍したスウェーデンの名テノール、ゲッダ(ニコライ・-)が、ストックホルムで生まれています。6カ国語を駆使して、イタリアものからドイツ、ロシア、フランスものまでさまざまな役柄をこなしました。一時訃報が流れたそうですがその後撤回され、それ以来訃報を聞いていません。(2016年6月現在)
●1927年、アメリカ生まれのスウェーデン指揮者ブロムシュテット(ヘルベルト・)が、スプリングフィールドで生まれています。経歴や風貌からすっかりドイツ系の指揮者と思われがちですが、意外にアメリカ生まれでした。ゲヴァントハウスやバンベルク、そしてN響の名誉指揮者として、つい最近も来日を果たしています。
●1929年、ドイツの名バリトン歌手プライ(ヘルマン・-1998)が、ベルリンで生まれています。1960年に『タンホイザー』を歌ってMETでのデビューを飾っています。得意なレパートリーとしてはフィガロ、ベックメッサー、アイゼンシュタインなど。5歳先輩で同郷のフィッシャー=ディスカウとしばしば比較されますが、プライの持つ明るいキャラクターと声質はまた違った魅力を持っていました。
●1937年、アメリカの作曲家ガーシュイン(ジョージ・1898-)が、ハリウッドで亡くなっています。アメリカ産オペラの代表作『ポーギーとベス』を作曲。ラヴェル(モーリス・1875-1937)は教えを乞うた彼に「あなたはもう一流のガーシュインだ。生まれながらの才能がある」と言ったとか。しかし、この日39歳と9ヶ月という若さで脳腫瘍のため亡くなったのです。


【7月12日】東西の名ソプラノの誕生日。

●1895年、ノルウエーのソプラノ歌手フラグスタート(キルステン・-1962)が、ハーマルで生まれています。とくにワーグナーの楽劇では、世界最高のソプラノという評価を得ていました。『ヴァーグナーの女王—キルステン・フラグスタート自伝』(新評論・刊)も出版されています。
●1946年、イギリスの作曲家ブリテン(エドワード・ベンジャミン・1913−76)『ルクリーシアの凌辱』が、グラインドボーンでアンセルメ(エルネスト・1883-1969)の指揮により初演されています。古代ローマを舞台にした歴史劇で、ブリテン初の小編成による室内オペラです。
●1953年、ソプラノの渡辺葉子(-2004)が、北九州市で生まれています。日本人歌手で初めて世界4大歌劇場で主役を務めた名ソプラノでした。1993年のMETのオープニング公演『蝶々夫人』でタイトルロールを務め、その公演での写真が95年のMETのカレンダーを飾った輝かしい経歴の持ち主でした。
●2005年、イタリアの名バリトン、カプッチェリ(ピエロ・1929*-)が、生まれ故郷のトリエステで亡くなっています。現役を退いてから10年以上たってはいるものの、この偉大な名歌手の訃報は欧米では大きく取り上げられたとか。とくに、ヴェルディ作品でのシモン・ボッカネグラ、ルーナ伯爵、ロドリーゴ、リゴレットなどは絶品でした。(*資料によっては生誕年を1926年、1928年ともしています)


【7月13日】カリスマ指揮者、覚悟の死を迎える。

●1924年、イタリアの名テノール歌手ベルゴンツィ(カルロ・-2014)が、プッセート近郊(正確にはパルマ近郊のヴィダレンツォ)で生まれています。ブッセートといえば、ヴェルディが生まれたロンコレ村とはすぐ近くのヴェルディゆかりの町。ここに、ベルゴンツィが経営している「イ・ドゥーエ・フォスカリ」という名のホテル&レストランがあります。ヴェルディ詣のツアーでは、たいがいここで昼食を食べるのがお約束。この名の由来は、彼がデビューしたオペラが『二人のフォスカリ』であったということから名付けられたもの。
●1951年、オーストリア出身の作曲家シェーンベルク(アルノルト・1874-)、ロサンゼルスで亡くなっています。彼は調性を脱した無調音楽から12音技法を生み出したことでは、20世紀に最も影響を及ぼした作曲家の一人と言っていいでしょう。ナチスに追われてアメリカで国籍を取得。オペラでは『モーゼとアロン』(未完)、『今日から明日まで』が有名です。
●1989年、パリのバスティーユ・オペラが落成。ガルニエ(シャルル・1825-98)設計のパリ・オペラ座にくわえて、フランス革命200年を記念してミッテラン大統領によって提案され、世界的な建築家カルロス・オット(1946-)の設計による最新機能のオペラハウスが、この日完成。翌年3月17日に、ベルリオーズ(エクトール・1803-69)の『トロイアの人々』で杮落とし。
●2004年、天才指揮者ともカリスマ指揮者とも呼ばれたクライバー(カルロス・1930-)が、スロヴェニアのリティア近郊コニシツァの自宅で亡くなっています。この2日前に音楽評論家のカール・シューマンに電話をかけ、自分の死亡告知を書く人間を選んでくれるように頼み、彼の死が発見されたのは2日後の15日に隣人によって発見されたのです。(資料:メルラン著『偉大なる指揮者たち』)(誕生日の7月3日の項参照)
●2014年、アメリカの名指揮者マゼール(ロリン・1930-)が、アメリカのヴァージニアで亡くなっています。わずか9歳でオーケストラを指揮し、さらにヴァイリニストとしてデビューするなど、神童の名をほしいままにした人でした。その後、ウィーン国立歌劇場の総監督などを務め、日本にも1963年以来たびたび訪れ、最後の来日公演は2013年のミュンヘン・フィルを率いてのものでした。


【7月14日】フランス革命の日は、「救出オペラ」を聴いてみよう。

●1789年、バスティーユ襲撃をしたこの日、フランス革命勃発の日とされ、いうまでもなくフランスの革命記念日となっています。フランス革命を材に取ったオペラでもっとも有名なのがジョルダーノ(ウンベルト・1867-1948)の『アンドレア・シェニエ』ですが、この時代に流行ったのが「救出オペラ」と呼ばれるもの。囚われた囚人が、最後には無事救出されるという筋書きのドラマで、その代表作がベートーヴェン(ルートヴィヒ・ヴァン・1770−1827)の『フィデリオ』。もっともその前に同じ原作( J. N.ブーイ)で、ケルビーニ(ルイジ・1760−1842)が『二日間』という救出オペラを書いています。
●1965年(昭和40)、この日ドニゼッティの代表作『ランメルモールのルチア』が、日本人歌手のみによる初演を果たしています。その前にカービ歌劇団が来日して1923年に帝劇で日本初演。さらに、その前の1918年に原信子歌劇団による抄演も記録されています。


【7月15日】この日は名歌手たちの命日が重なって。

●1782年、歴史的なカストラート歌手ファルネッリ(1705—)が、ボローニャで亡くなっています。ポルポラ(ニコラ・アントニオ・1886-1768)の指導を受け、ナポリでデビュー。その後、ヨーロッパ各地で歌って名声を得ています。映画『カストラート』(G.コルビオ監督)は、彼をモデルとしたもの。その音域は「中央ハの下のAから2オクターブ上のDまであった」と当時の作曲家クヴァンツが証言しています。
●1960年、アメリカのバリトン歌手ティベット(ローレンス・1896-)が、ニューヨークで亡くなっています。ヴェルディ・バリトンとして鳴らす一方、アメリカ人作曲家の新作オペラも積極的に取り上げる名歌手でした。交通事故による死去でした。
●2004年(平成16)、渡辺葉子(1953-)が、ミラノで亡くなっています。日本人歌手で初めて世界4大歌劇場で主役を務めた名ソプラノでした。1999年、新国立劇場での『蝶々夫人』の公演中に体調不良で降板した後は、療養生活を続け2004年に心不全で亡くなっています。まだ51歳という若さでした。(誕生日の7月12日の項参照)


【7月16日】帝王カラヤンが亡くなった日。

●1782年、モーツァルト(ウォルフガング・アマデウス・1756−91)『後宮からの誘拐』が、ウィーンのブルク劇場で初演されています。ドイツ・オペラを目指したヨーゼフ2世の命により建設されたブルク劇場のために書かれたドイツ語によるオペラです。
●1832年、パリのオペラ・コミック座の支配人デュ・ロクル(カミーユ・-1903)が、オランジェで生まれています。彼はビゼー(ジョルジュ・1838-75)の『カルメン』の初演を果たし、またヴェルディ(ジュゼッペ・1813−1901)の『ドン・カルロ』や『アイーダ』の台本にも協力し、『運命の力』ではフランス語版を翻訳しています。
●1927年、フランスの指揮者ボド(セルジュ・)が、マルセイユで生まれています。彼はカラヤンの代役でスカラ座において『ペレアスとメリザント』を指揮していて一躍有名に。
●1936年、音楽写真家の木之下晃(きのした・あきら-2015)が、諏訪で生まれています。世界の名演奏家たちをカメラのファインダーを通して、音楽を語らしめた写真家でした。
●1979年、イギリスのカウンターテナーのデラー(アルフレッド・1912-)が、ボローニャで亡くなっています。ブリテン(エドワード・ベンジャミン・1913−76)とも親交があり、彼の『夏の夜の夢』のオベロンはデラーを想定して書かれたものです。
●1982年、日本のアルト歌手四家文子(よつやふみこ・1906-)が、神奈川で亡くなっています。1929年『堕ちたる天女』(山田耕筰作曲)でデビューし活躍したほか、後進の指導にもあたり多くの日本人歌手を育成しました。
●1989年、ヨーロッパ楽壇の帝王と呼ばれた名指揮者カラヤン(ヘルベルト・フォン・-1989)が、生まれ故郷のザルツブルクで亡くなっています。ウィーン、ベルリン、ザルツブルク、ミラノなどのヨーロッパ楽壇の主要ポストを独占するなど、まさに「帝王」と呼ぶにふさわしい活躍でした。日本にもたびたび来日し、その指揮ぶりは多くの音楽フアンを魅了しました。(誕生日の4月5日の項参照)


【7月17日】たまにはリブレッティスタ(台本作者)にも、注目を。

●1852年、イタリアの台本作者カンマラーノ(サルヴァトーレ・1801−)が、ナポリで亡くなっています。ドニゼッティ(ガエターノ・1797−1848)『ルチア』から、ヴェルディ(ジュゼッペ・1813−1901)の『イル・トロヴァトーレ』まで、多くの作曲家の名曲オペラを生み出す源泉でした。(誕生日の3月19日の項参照)
●1914年、アメリカのソプラノ、スティーバー(エリナー・-1990)が、ウエストヴァージニアで生まれています。METでは1940年デビューし、ドイツ・オペラを中心に、ヴェルディ、プッチーニも歌って活躍。57年には来日も果たしています。
●1927年、ドイツの作曲家ヒンデミット(パウル・1895-1963)『行きと帰り』が、バーデンバーデンで初演されています。
●1937年、フランスの作曲家ピエルネ(ガブリエル・1863-)が、プルジャンで亡くなっています。オペラとしてはミュッセ原作の『戯れに恋はすまじ』など8曲を残しています。
●1939年、イタリアのカンツーネ歌手ミルバが、ゴーロで生まれています。日本にも親しいカンツオーネ歌手ですが、それだけにとどまらずピアソラ(アストール・1921-91)と共演したり、オペラでもヴァイル(クルト・1900-50)『三文オペラ』で、見事な歌唱を聞かせてくれました。


【7月18日】弾圧を食い止めた指揮者マズーア。

●1791年、イタリアの作曲家ケルビーニ(ルイジ・1760−1842)『ロドイスカ』が、パリのフェドー劇場で初演されています。17世紀ごろのポーランドを舞台にした騎士劇ということですが、今ではほとんど上演されていません。
●1927年、ドイツの指揮者マズーア(クルト・-2015)が、ブジェク(現ポーランド領)で生まれています。東ドイツの主要都市で活躍し、ベルリンの壁崩壊につながる1989年のライプチヒの月曜日デモの際には、東ドイツ当局に対して市民への武力行使を避け、平和的解決を要望するメッセージを発表したことは、当時国際的な反響を呼びました。なお、日本の声楽家桜井偕子さんと結婚し、息子のケン・マズーアは指揮者として父の後を追っています。2015年12月19日アメリカのグリニッジで88歳で天寿を全うしました。


【7月19日】懐かしいイタリア歌劇団の名バリトン、プロッティ誕生。

●1920年、イタリアの名バリトン歌手プロッティ(アルド・-1995)が、クレモナで生まれています。オールド・ファンなら、1959年からイタリア歌劇団の一員としてたびたび来日したことが記憶の残っているはず。とくにイアーゴ、ジェルモン、リゴレット、ジェラールなどの名演は忘れられません。
●1935年、ドイツの指揮者アルブレヒト(ゲルト・-2014)が、エッセンで生まれています。日本では、読売日本交響楽団の常任指揮者として1998年から2007年まで在任し、その間に現代音楽やオペラにも積極的に取り組み、グルリット(マンフレート・1890−1972)『ヴォツェック』日本初演、ヘンツェ(ハンス・ヴェルナー・1926-2012)『午後の曳航』世界初演、ヤナーチェク(レオシュ・1854−1928)『運命』の日本初演を行っています。
●1943年(昭和18)、日本を代表するソプラノの一人、林康子が香川県で生まれています。1973年には、ミラノ・スカラ座において日本人で初めて『蝶々夫人』のタイトルロールを歌っています。その後1986年には、同じくスカラ座でマゼール(ロリン・1930-2014)の指揮で、蝶々夫人の林康子に、演出:浅利慶太、衣装:森英恵が加わった公演を行っています。


【7月20日】『トリスタンとイゾルデ』は、指揮者の鬼門?

●1752年、ドイツ生まれでイギリスで活躍した作曲家ペープシュ(ヨハン・クリストフ・1667-)が、ロンドンで亡くなっています。ちょうどヘンデル(ジョージ・フレデリック・1685−1759)と同じように、ドイツからイギリスへ帰化した経歴の持ち主ですが、当時人気絶頂だったヘンデルに対抗してバラッド・オペラ『乞食オペラ』を作曲(というよりも民謡などを編曲した)して、一時その人気に水を差したことでも知られています。
●1968年、ドイツの指揮者カイルベルト(ヨーゼフ・1908-)が、ミュンヘンで亡くなっています。『トリスタンとイゾルデ』の指揮中でした。1959年からバイエルン国立歌劇場の音楽監督を務め、同劇場での公演中に心臓麻痺で亡くなったのです。このオペラを指揮中に亡くなったモットル(フェリックス・1856−1911)もまた、この劇場でのことでした。日本にはNHK交響楽団に1967-8年に常任指揮者として招かれ、その堅実な指揮ぶりが人気を呼びました。(誕生日の4月19日の項参照)


【7月21日】日本を代表する指揮者の一人若杉弘、無念の逝去。

●2009年、指揮者の若杉弘(1935-)が、東京で亡くなっています。オーケストラ指
揮者としてドイツを中心に客演し、オペラではダルムシュタット、ドルトムント、バイエルン国立歌劇場指揮者、ライン・ドイツ・オペラ音楽総監督、ドレスデン国立歌劇場およびドレスデン・シュターツカペレ常任指揮者などの要職を歴任。2007年9月より新国立劇場のオペラ芸術監督に就任し、2008年には山田耕筰(1886-1965)『黒船』やツィンマーマン(ベルント・アロイス・1918-70)『軍人たち』を指揮。芸術監督として任期半ばでの無念の逝去でした。(誕生日の5月31日の項参照)


【7月22日】トスカニーニお気に入りのソプラノ、アルバネーゼ。

●1847年、ヴェルディ(ジュゼッペ・1813−1901)『群盗』が、ロンドンの女王陛下劇場で初演されています。シラー(ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・1759-1805)の原作による18世紀のドイツを舞台にした悲劇。『マクベス』の後に書かれた彼にとっては11作目のオペラで、イタリア以外の国から委嘱された最初の作品でもありました。
●1909年、イタリア出身のソプラノ歌手アルバネーゼ(リチア・-2014)が、バーリで生まれています。1934年、ミラノで急な代役として『蝶々夫人』を歌いデビューを果たしました。このデビュー以来、生涯にわたって300回以上も蝶々夫人を歌ったといいます。HMVの資料によれば、1940年に『蝶々夫人』でメトロポリタン歌劇場にデビュー。以後、26シーズンで「蝶々夫人」72回を含む16作品、427回の上演に参加したとのこと。日本では『蝶々夫人』ではなく、トスカニーニ(アルトゥーロ・1867−1957)指揮のヴィオレッタやミミで知られていました。1946年には、『ラ・ボエーム』を初演したトスカニーニによる初演50周年記念録音に招かれて参加(これは、CDにもなっている)して絶賛され、さらに同じ年の12月に行われたトスカニーニ指揮『椿姫』では、ラジオ生放送にもかかわらず見事なヴィオレッタを歌い、これを聴いたカラス(マリア・1923-77)からアルバネーゼに「どうしたらあのように歌えるの?」と聞かれ、彼女は「トスカニーニが望んだ通りにやっただけ」と答えたそうです。2014年8月15日、ニューヨークの自宅において104歳で天寿を全うしました。


【7月23日】日本のオペラは、この日から始まった。

●1757年、イタリアの作曲家スカルラッティ(ドメニコ・1685-)が、マドリードで亡くなっています。彼は多くの鍵盤楽器による楽曲が多く、オペラは『捨て去られたディドーネ』『ハムレット』など数曲が残っているのみです。ちなみに父は、オペラにおけるナポリ楽派の始祖とも言われている同姓のアレッサンドロ(1660−1725)。
●1866年、イタリアの作曲家チレーア(フランチェスコ・-1950)が、パルミで生まれています。出世作『アドリアーナ・ルクヴルール』(1902)で、ヴェリズモ・オペラ作曲家としての名声を手に入れたのです。そのほかに『アルルの女』『ティルダ』『ジーナ』などの作品があります。
●1903年(明治36)、日本初の日本人によるオペラ公演『オルフォイス』が、上野の奏楽堂で上演されました。これはグルック(クリストフ・ヴィリバルト・1714-87)の『オルフェウスとエウリディーチェ』で、お雇い音楽教師ノエル・ペーリの指導のもとで、柴田環(のちの三浦環・1884-1946)がエウリディーチェ役にあたる百合姫を歌っています。
●1998年、ドイツの名バリトンとして人気のあったプライ(ヘルマン・1929-)が、クライリングで心臓発作のため亡くなっています。7月に69歳の誕生日を迎えたばかりでした。晩年はハンブルクの音楽大学で後進の指導を行い、自伝も執筆。1988年にはザルツブルク音楽祭で『フィガロの結婚』の演出も行っています。(誕生日の7月11日の項参照)


【7月24日】ヴェネツィアを代表する作曲家は、マルチェッロ。

●1686年、イタリアのバロック期の作曲家マルチェッロ(ベネデット・-1739)が、ヴェネツィアで生まれています。(ただし8月1日生まれという説も)ヴェネツィアの有力貴族として育ち、共和国委員会委員として政治家としても活躍しながら、400曲以上もの作品を残しています。オペラでは『認められた誠実』『アリアンナ』などが残されています。この人のオペラにはなかなか出会えないものの、当時のオペラ事情を活写し、かつライバルでもあったヴェヴァルディ(アントニオ・1678−1741)を散々皮肉っている「当世流行劇場」(未来社刊)という本を出版しています。バロック・オペラに興味のある方にはぜひお勧めします。
●そして1739年の奇しくもこの日、マルチェッロはブレーシャで亡くなっています。(ただし25日という説も)カメルレンゴというローマ法王の秘書役という称号を与えられ、この地に隠棲していたのです。それにしても、これだけ高位で有名だった人物の生没日がまちまちというのも珍しいようです。ちなみに現在のヴェネツィア音楽院の正式名称は、この人の名を取りベネデット・マルチェッロ音楽院と言います。兄のアレッサンドロ(1669-1747)も作曲し、かの有名なオーボエ協奏曲(ベニスの愛)を書いた人でした。
●1803年、フランスの作曲家アダン(アドルフ・-1856)が、パリで生まれています。バレエ曲『ジゼル』の作曲者として有名ですが、オペラにも『我もし王者なりせば』『ロンジュモーの御者』などがあります。(亡くなった日の5月3日の項参照)
●1864年、ドイツの劇作家ヴェーデキント(フランク・−1918)が、ハノーファーで生まれています。日本でも戦前は、『春の目覚め』など多くの読者を持っていました。ベルク(アルバン・1885-1935)の未完のオペラ『ルル』は、彼の2つの作品から生まれています。(亡くなった日の3月9日の項参照)
●1921年、イタリアを代表するテノール歌手ディ・ステーファノ(ジュゼッペ・-2008)が、シチリア島のカターニア近郊で生まれています。1940年だから70年代にかけて、ベルゴンツィ(カルロ・1924-2014)、デル・モナコ(マリオ・1915-82)などと同時期に活躍し、イタリア・オペラの黄金期を築いた一人です。共演者でもあったカラス(マリア・1923-77)とも愛憎半ばした関係にありましたが、74年、日本での彼女の最後のリサイタルの際には同行しています。(亡くなった日の3月3日の項参照)
●1938年、ドイツの作曲家シュトラウス(リヒャルト・1864-1949)『平和の日』が、ミュンヘン国立歌劇場で初演されています。ツヴァイク(シュテファン・1881-1942)の原案に基づく1幕のオペラ。17世紀の30年戦争を材に取ったもの。初演の5年前にはヒトラーが首相となり、この初演の年に、ドイツ帝国がオーストリアを併合したというのも何か象徴的です。
●1945年、イタリアのソプラノ歌手ストルキオ(ロジーナ・1876-)が、ミラノで亡くなっています。『蝶々夫人』を世界初演し、レオンカヴァッロ(ルッジェーロ・1857-1919)の『ラ・ボエーム』などの初演にも参加しています。(誕生日の5月19日の項参照)


【7月25日】20世紀後半を代表するテノール、ベルゴンツィ死去。

●1853年、アメリカの劇作家・興行主ベラスコ(デーヴィッド・-1931)が、サンフランシスコで生まれています。彼の原作になる『蝶々夫人』『西部の娘』は、プッチーニ(ジャーコモ・1858-1924)によって不朽の名作となりました。(亡くなった日の5月15日の項参照)
●1909年、イタリアの指揮者ガヴァッツェーニ(ジャンナンドレア・-1996)が、ベルガモで生まれています。スカラ座の芸術監督なども務め、欧米各地で活躍。とくにヴェリズモ・オペラの演奏には定評がありました。
●1976年、アメリカの作曲家グラス(フィリップ・1937-)『浜辺のアインシュタイン』が、アヴィニョンで初演されています。物理学者のアインシュタイン(アルベルト・1879-1955)をテーマにしたミニマル・ミュージックによるオペラの代表作。
●1983年、アルゼンチンの作曲家ヒナステラ(アルベルト・1916−)が、ジュネーブで亡くなっています。(誕生日の4月11日の項参照)
●2014年、イタリアの名テノール歌手ベルゴンツィ(カルロ・1924-)が、ミラノで亡くなっています。ディ・ステーファノ(ジュゼッペ・-2008)、デル・モナコ(マリオ・1915-82)らとともに、イタリア・オペラの黄金期を築いたテノールの一人です。自己管理によって長く声を保ち、2000年には、75歳にしてカーネギー・ホールで演奏会形式ながらオテッロを歌ったほど。この時はさすが最後までは歌いきれなかったようですが、翌年来日した時は、歳を感じさせない歌声だったと言います。(誕生日の7月13日の項参照)


【7月26日】ワーグナーの最後の作品『パルジファル』初演。

●1882年、ドイツの大作曲家ワーグナー(リヒャルト・1813−83)の最後の作品となった舞台神聖祝祭劇『パルジファル』が、第2回バイロイト祝祭においてレヴィ(ヘルマン・1839-1900)の指揮によってバイロイト祝祭劇場で初演されています。この最後の公演(8月29日)では、最終場面だけをワーグナー自身が指揮をとりました。


【7月27日】この日がなければ「椿姫」は生まれなかった?

●1824年、『椿姫』の原作者であるフランスの詩人・小説家デュマ=フィス(アレキサンドル・-1895)が、大デュマ(アレキサンドル・1802-70)を父に、縫製女工を母にしてパリで生まれています。代表作『椿姫(椿を持つ女)』が、自らの体験で高級娼婦マリー・デュプレシ(1824-47)との恋を描いたものであることはあまりにも有名です。
●1867年、スペインの作曲家グラナドス(エンリケ・-1916)が、スペインのレリダで生まれています。ピアノの名手だったためにピアノ曲が多い作曲家ですが、オペラとしては『ゴイェスカス』が有名です。(亡くなった日の3月24日の項参照)
●1915年、20世紀の後半に「黄金のトランペット」を呼ばれた名テノール、デル・モナコ(マリオ・-1982)が、ガエータ(従来はフィレンツェと言われていました)で生まれています。日本では、まさに最盛期の彼の歌声を生で聴ける機会がありました。NHKが招聘したイタリア歌劇団の一員として、『アイーダ』『オテッロ』などに出演しています。古い映像ですがDVDで見ることもできます。息子のジャンカルロ(1943−)は、オペラ演出家として活躍しています。
●1924年、ドイツ系イタリアの作曲家・ピアニストのブゾーニ(フェルッチョ・ベンヴェヌート・1866-)が、ベルリンで亡くなっています。プッチーニ(ジャーコモ・1858-1924)より以前の1904年に『トゥーランドット』を管弦楽組曲として作曲しています。(誕生日の4月1日の項参照)
●2008年、ドイツの指揮者シュタイン(ホルスト・1928-)が、スイスのヴァンドゥーヴィルの自宅で亡くなっています。ハンブルク国立歌劇場の総監督やスイス・ロマンド管弦楽団の音楽監督として活躍するほか、たびたび来日しNHK交響楽団を計16回も振っています。


【7月28日】バロック期の巨匠二人が、この日亡くなる。

●1741年、『四季』で有名なイタリア・バロックの大作曲家ヴィヴァルディ(アントーニオ・1678-)が、ウィーンで亡くなっています。ヴェネツィアに生まれ、赤毛の司祭と呼ばれて、ピエタ養育院でヴァイオリンを教えるだけでなく、数多くの協奏曲集を作曲。さらに同地の劇場で興行主となり、90曲ものオペラを作曲したと言います。しかし、突然住み慣れたヴェネツィアを離れウィーンに赴きますが、その後の消息は不明となり、この街の貧民葬で葬られたことが判明したのは1938年のことでした。(誕生日の3月4日の項参照)
●1750年、大バッハと呼ばれるドイツ音楽の巨匠バッハ(ヨハン・セバスチャン・-1750)が、ライプチヒで亡くなっています。彼はオペラこそ書きませんでしたが、多くの声楽曲、とりわけ世俗カンタータは彼にとってのオペラだったのかもしれません。彼の息子であるヨハン・クリスチャン・バッハ(1735-82)は、なかなかのオペラ作曲家でした。
●1941年、トスカニーニ(アルトゥーロ・1867−1957)の後継者として自他ともに許すイタリアの指揮者ムーティ(リッカルド・)が、ナポリで生まれています。かつての帝王カラヤンのように世界中の主要ポストを占めながら、また音楽界での対立も激しいところは、やはり巨匠たる所以でしょうか。
●1962年、旧東ドイツの名指揮者コンヴィチュニー(フランツ・1901-)が、ベオグラードで亡くなっています。ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を率いてのベートーヴェンは、まさに古き良き時代のドイツを思い起こさせます。彼の息子のペーター(1945−)は、いまや革新的な演出家として大活躍。
●1972年、アメリカのソプラノ歌手トローベル(ヘレン・1899-)が、サンタモニカで亡くなっています。巨匠トスカニーニの信頼を得て、彼の得意としたワーグナー録音でのブリュンヒルデの名唱がCDに残っています。また、彼女の名前を冠したバラがあるのをご存知ですか?


【7月29日】お誕生日が集中。

●1887年、オペレッタ・ミュージカル作曲家ロンバーク(ジーグムント・-1951)が、ハンガリーのナジカニジャで生まれています。早くからアメリカに渡り、オペレッタ風のレビューでデビュー。とくに『学生王子』は有名。また彼のミュージカルの中から「朝日のように爽やかに」や「恋人よ我に帰れ」など、ポピュラー曲として有名になったものも少なくありません。
●1935年、ドイツのテノール歌手シュライヤー(ペーター・)が、マイセン近郊で生まれています。バイロイトや METをはじめ、世界各地の歌劇場で出演。誠実な歌唱力と深い解釈で、日本でも多くの人気を得て、たびたび来日を果たしています。また1970年ごろからは、指揮者としても活躍しています。
●1942年、オーストリアのバリトン歌手ヴァイクル(ベルント・)が、ウィーンで生まれています。主としてドイツ系オペラで活躍しています。
●1970年、イギリスの名指揮者バルビローリ(ジョン・1899-)が、ロンドンで亡くなっています。英国人なので本来ならバービロリと読むはず(音楽辞典ではこの表記)ですが、日本では昔からこの呼び名で通っています。イタリア人の父の名を継いだことから、イタリア語感のこの呼び名になったのでしょう。日本では管弦楽指揮者のイメージが強いようですが、コヴェントガーデンやサドラーズ・ウェルズ・オペラなどでも指揮をとっています。


【7月30日】厳格な指揮ぶりのセル、亡くなる。

●1970年、ハンガリー出身のアメリカの名指揮者セル(ジョージ・1897-)が、クリーヴランドで亡くなっています。私たちには、亡くなった場所でもあるクリーヴランド交響楽団を長年率いて、アメリカ有数のオーケストラに育て上げた厳格な指揮者のイメージがあります。もともとは、シュトラウス(リヒャルト・1864-1949)に見出されて、ドイツをはじめヨーロッパの歌劇場を務めたのち、第2次世界大戦が勃発してからアメリカに定住。METではワーグナーを得意としオペラの分野でも活躍しました。(誕生日の6月7日の項参照)


【7月31日】バイロイトで逝った痛ましいリストの死。

●1848年、フランスのオペレッタ作曲家プランケット(ロベール・-1903)が、パリで生まれています。中でも『コルヌヴィユの鐘』は彼の代表作で、日本のオペラ前史においても、帝劇などでさまざまに上演された人気曲でした。(誕生日の1月28日の項参照)
●1886年、ハンガリーのピアニスト・作曲家リスト(フランツ・1811-)が、バイロイトで亡くなっています。彼の弟子であったシュマルハウゼンによれば、「到着から数日後、ベッドから起き上がれなくなった彼は、あまりの苦しみに精神錯乱状態から昏睡状態に陥る。1886年7月31日、午後11時半、死去。死因は、心筋梗塞による進行性心不全だった」(浦久俊彦「フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたか」(新潮新書)より。
(隠れコラムの項参照)
●1977年、水野修孝(1934-)『天守物語』が、テレビ放送で初演。(日本オペラ協会により1979年3月8日に舞台初演)

<隠れコラム>
本当は、オペラ作曲家になりたかった?リスト。
リスト(1811-1886)といえば、有名な『ハンガリー狂詩曲』はじめ多くのピアノ曲や交響詩などを書いたハンガリー出身の作曲家で、超絶技巧を駆使する大ピアニストとして知られている。一般には、フランツ・リストと呼ばれているが、これはドイツ語読み。リスト・フェレンツというように、日本と同じく姓・名の順で表記されるのがハンガリー語。彼が最初に書いたオペラは13歳の時に書いた『ドン・サンシュまたは愛の館』というもので、全曲はパリで初演されている。かなりの早熟だったようだ。彼自身は、オペラ作曲家を夢見ていたが、その後の彼は当時ヒットしたオペラの曲を巧みに変奏したりする技巧的なピアノ用編曲を数多く書いたのみで、彼自身のオペラはその後1曲も作曲しなかった。とはいえ、オペラと縁遠かったわけではなく、ワイマールの宮廷劇場の音楽監督としてグルック、シューベルト、ワーグナーなどのオペラを指揮し、近代オペラ指揮法の基礎を築いた一人ともいわれている。とくにリストの次女コージマがビューローの妻となり、その後、ワーグナーの妻となったことから、ワーグナーとはつねに密接な関係を持ち続けていた。ワーグナーの『ローエングリン』の初演指揮者はリスト自身でもあったし、亡くなった場所もワーグナーゆかりのバイロイトであった。

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