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賭けて、すべてを失った。一人の女性の生き方を描くドラマ———高崎の創造舞台芸術 自主制作オペラ《蝶々夫人》

賭けて、すべてを失った。一人の女性の生き方を描くドラマ———高崎の創造舞台芸術 自主制作オペラ《蝶々夫人》

全国共同制作プロジェクトとして各地を巡演している、笈田ヨシの演出によるプッチーニの歌劇「蝶々夫人」は、金沢、大阪での上演を経て2月4日(土)に第三の公演地、高崎に来た。会場はアントニン・レーモンドによる名建築としても知られる群馬音楽センターだ。ここ最近上演、上演が続く「蝶々夫人」だが、ピーター・ブルックとの仕事でも知られる気鋭の演出家はどのようにこの作品を見せてくれたのか。結論を先に申し上げるなら、恋の夢に裏切られる哀しい少女の物語ではない、一人の女性の生き方を描くドラマとしてこの作品を示すものだった。
今回の巡演は最終上演の東京芸術劇場(2/18、19)を残しているが、本稿では演出について書くので、上演まで公演の詳細を知りたくない方には申し訳ないところだが公演終了後にお読みいただければと思う。

この日の《蝶々夫人》の公演会場となった群馬音楽センターの客席は、ほぼ満席(一部の見切れ席を除く)

笈田ヨシは「蝶々夫人」を演出するにあたって、明治初期の物語として書かれた作品を第二次大戦後の長崎に移し替えた。この変更によって幕末からの混乱に翻弄された少女の物語から、彼自身が少年期を過ごした時代でもある”戦後”を一人の女性がどのように生きることを選んだか、という物語に変わったことになる。各地での上演を考慮してか舞台装置は簡素なものだが、衝立を動かすことで一幕の仮初の結婚式、二幕以降の蝶々さんの家がはっきりと示される。小道具なども説明的なものではなく象徴的な物が多く、それらも合唱や黙役が持ち歩ける範囲で情景の描写、場面に持たされた意味を示唆する。そして舞台後方には一段高い舞台が用意されて、そこは虚実どちらをも映し出す場として活用されるが、全体に簡素な舞台は聴衆の想像を刺激するよう作られている。
そんな舞台を読む上でもっとも注目すべきは、オペラの冒頭、ピンカートンを”新居”に導くゴロ―が持ち込む星条旗だ。結婚式の場には領事も招かれているのだから国旗の存在は自然なことかもしれない、だが二幕以降に彼女が”アメリカ人の家だ”と言い張るそこにも置かれ続けることでこの旗の存在感は増していく。

合唱団には、高校生からシニアまでが参加。世代を超えて、4ヶ月の稽古を共にした。

当然のことだが、この旗が示す対象はピンカートンであり彼の国だ。そしてそれだけが蝶々さんに残った最後の希望であり、同時に他の選択をさせない呪縛なのだ。混乱の時代の中を生き延びるための選択として米軍兵の妻に、つまり米国人になることを選んだ、若いけれど一人の強い意志を持った女性なのだ、と笈田は示すのだ。そう考えれば第一幕で彼女がピンカートンに示す憧れの言葉も、床入りをじらすように振舞う姿もすべてはより強くピンカートンに選ばれるため、彼が手放せない存在となるための精一杯の努力に思えてくる(少女の年齢ながら、すでに彼女は芸者稼業も経験していることを思い出そう)。
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ピンカートンとの結婚式で起きる一連の出来事のなかで、宗教から親族まで日本とのつながりを次々に手放していく彼女には、もう彼(と彼が属する国)にしか可能性がなくなってしまうのだから、いわばそこにすべてを賭けてしまったような状態に蝶々さんは陥る。そんな彼女がピンカートン不在の日々を心穏やかに過ごせるはずもなく、それがもっとも見事に示されたのは第二幕の最も有名なアリア「ある日私たちは見るでしょう(ある晴れた日に)」の場面だろう。最も有名なアリアを歌い終えた蝶々さんは、揺れ動く気持ちを見せたくないかのように客席に背を向け、しかし自分が泣いてしまうことを止められない。希望を歌いながらも彼女が表に出せない「賭けは失敗だったのではないか、もう私は負けたのでは?」などの疑念や不安、怖れが誤解しようなく聴衆に伝わる、この舞台屈指の名場面として記憶されることだろう。
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その後日本に戻って来たはずの彼はなかなか訪れず、そして…と進む話そのものは特段の変更はない(というより、この演出において場面の設定以外には大きな変更はなく、作品の筋書きとの齟齬はない)。だが今回の上演では、逃げ出したピンカートンの不在の中で蝶々さんと彼の「アメリカ人の本物の妻」ケイトとの対話がブレシャ版から持ち込まれる。ここで蝶々さんは否応なく現実を知らされる、自分ではなく彼女がアメリカ人の妻なのだと。この場面を見れば誰もが否応なく第一幕からのすべてを振り返って理解するだろう、彼女は賭けて、すべてを失ったのだと。よかれと思ってシャープレスが渡す金も、結婚生活が彼女が命をかけて拒んだ芸者生活と変わらないものだと駄目を押すものでしかない。そう思い知らされたからこその”名誉に生きられぬものは名誉に死すべし”、なのだ。その認識に至って彼女はついに星条旗を自らの手で倒す、それはそのまま彼女の敗北宣言であり、もはや彼女には何も残されていない…悲痛なコーダの鳴り響く中、彼女の親が遺した短刀を見つめたまま暗転し、オペラは終わる。
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こう書いてしまうとイメージしている可憐な少女の悲恋とは離れた苛烈な物語となるのだが、この演出で示されるその読み取りは実に説得的なものだった。厳しい時代を生き抜くための選択がまた別の厳しさや悲劇を導いてしまう、そんな二段階の悲劇が作品の本質であり、オリエンタリズムやジャポニズムはあくまで装飾に過ぎない。笈田ヨシにそう教えられたように、今は感じている。

ではキャストについても触れていこう。タイトルロールを担当した中島彰子は、まずその芝居に対して拍手を贈りたい。強い感情移入が伝わり、しかも特に二幕での感情表現の多彩さは印象的だった。小手先の演技ではない強い表現は、より芝居としての質が求められるフォルクスオーパーなどの舞台を経験してきたがゆえのものであろうか、スズキ役の鳥木弥生との呼吸もよく合って二幕以降は場内のあちこちからすすり泣く声も聞こえたほどのドラマを見せてくれた。ドン・ジョヴァンニとレポレッロの関係のように、この舞台ではスズキは蝶々さんが表現できない”本心”を託される意味も持たせられていただろうか、ちょっとしたリアクションなどにも多くの思いが込められていたように思う。
ピンカートン役のロレンツォ・デカーロは、おそらく蝶々さんとケイト以外には愛されることがないだろう役どころを、その体躯も活かして存分に示してくれた(だが、この役での好演とは何を指すだろうか、と少し考えてしまう。その理由は”ピンカートンが示すものに対してどうしても好感を持てないから”という私的な感情なので、デカーロには申し訳ないような気もしてしまうところだ)。シャープレスはこの演出でも穏当な大人として、ピンカートンに同調してしまうことなく(むしろ彼に対しては批判的なスタンスに見える所作が目立った)蝶々さんには可能な範囲で力添えしようと振舞う(しかし最後に彼女を追い詰めるのはその善意なのだが)。ピーター・サヴィッジの落ちついた佇まいは、その印象を強めたように思う。
ピンカートンの”アメリカ人の花嫁”ケイトを演じたサラ・マクドナルドが、オペラのものではない発声だったことに違和感を覚えた方もいらっしゃるかもしれない。だが私見ではそれもまたひとつの演出意図だったと読むほうがより興味深く思える。蝶々さんが夢見た生活を、彼女とは何から何まで違う、声の出し方までが違う存在が送っている現実を端的に伝えるために彼女が起用された、そう理解して私はその存在感を楽しんだ。

群馬音楽センターという昭和の名建築は、現在の基準で考えれば少々残響がなさすぎるかもしれない、またプッチーニの薄造りのような繊細なサウンドには厳しい面もある。だが、それでもこの演出を上演するには最適の会場だったのではないか、と感じさせられた。外観からそのまま延長された多角形の室内は独特の雰囲気があるし、舞台上方に緞帳の見えるステージは往年の芝居小屋を思わせて、このオペラを昭和の時代に起こり得たドラマとして示す最良のセッティングとして機能したように思う。
各地で異なるオーケストラを指揮して上演を率いてきたミヒャエル・バルケは過去に「メリー・ウィドウ」でもこのシリーズに登場したオペラを中心に活躍するドイツの指揮者だが、恣意的にならない堅実な仕事は好感を持てるものだった。小さいピットに合わせた編成の群馬交響楽団も、残響の助けのない中好演した。

「蝶々夫人」に”正しい日本像”を求めるのもいいけれど、作品の本質に踏み込んで読みの可能性を示すのもいい。この舞台を見ることで、そんなあたりまえのことを再認識したように思う。先日上演が終わった新国立劇場の舞台や放送されたミラノ・スカラ座による初演版を思い出し、またこれから上映されるロイヤル・オペラ・ハウスの舞台(3月末現地で上演、それ以降に日本でも上映の予定)を見る時に、私たちはまたこの作品に魅了され、そして多くのことを考えさせられることだろう。
これは個人的な感触なのだが、”戦後”に時間軸を移したこの演出が、奇しくも映画「この世界の片隅に」がヒットするタイミングで登場したことについていろいろと考えてしまう。長崎と呉でそれぞれにあの戦争を生き抜いた二人の女性の生涯の対比、このタイミングだからできる読みの楽しみとしてお薦めしたく思うが如何だろうか。
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取材・文:千葉さとし reported by Satoshi Chiba / photo: Naoko Nagasawa


平成28年度全国共同制作プロジェクト 高崎の創造舞台芸術 自主制作オペラ
蝶々夫人
≪新演出≫全幕・日本語字幕付原語上演

2017年2月4日(土)16:00 開演
群馬音楽センター

指揮:ミヒャエル・バルケ
演出:笈田ヨシ

蝶々夫人:中嶋彰子
ピンカートン:ロレンツォ・デカーロ
シャープレス:ピーター・サヴィッジ
スズキ:鳥木弥生
ゴロー:晴雅彦
ケイト・ピンカートン:サラ・マクドナルド
ヤマドリ:牧川修一
ボンゾ:清水那由太
役人:猿谷友規
いとこ:熊田祥子

ダンサー:松本響子
父親:川合ロン
召使:関裕行,松之木天辺
村人:重森一,山口将太朗

ヤクシデ:黒澤仁
蝶々夫人の母:境野良香
蝶々夫人の叔母:高橋千夏

蝶々夫人の子供:寺尾尭晃

管弦楽:群馬交響楽団

合唱:高崎オペラ合唱団

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