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ワーグナー協会 第395回 例会 「ローエングリン」特集1「深作 健太、《ローエングリン》演出を語る」より(後編)

ワーグナー協会 第395回 例会 「ローエングリン」特集1「深作 健太、《ローエングリン》演出を語る」より(後編)

ワーグナー協会 第395回 例会 「ローエングリン」特集1「深作 健太、《ローエングリン》演出を語る」より(前編)


岡田:
映画監督の方のオペラ演出というと、やたら映像を使うというイメージがあります。

深作:
今回のスタッフには映像スタッフがおりません。舞台表現において、映像はすごく雄弁過ぎるものなので、使いたくないんですよね。必要性がある時はやむを得ずなんですけど、できたら極力使いたくない方なので、照明そして美術という素晴らしいものが既にそこにヴィジュアルとしてありますので。特にオペラという表現は、やっぱり音楽が主体で見に行くではなく聞きに行くものだと思いますので、視覚をクローズアップしてしまうことで、歌手の方が小さく見えてしまう。映像というのは面積的にも大きいものですから。やはりオペラは音楽を聞かせるものだと思うので、映像を見せるくらいなら目をつぶって聴いていて頂きたいくらい。視覚的な方面に映像が使われるような演出だったり、映像が音楽の隙間を埋めてしまってはいけないと、映画監督だからなおさら思ってしまいます。


岡田:
隙間を埋めるとはどういうことでしょうか。

深作:
演劇とオペラの違いは何ですかと問われることがよくありまして、その答えにも多少近づきます。映画・演劇でしたらシナリオ・戯曲、そしてオペラでしたらスコアからビジュアルや感情をイメージしていくわけなんですけども、演劇の場合は隙間だらけなんです。寧ろ行間にこそ答えがあるという。例えば「ねえ」「何」「うん」「あのさぁ」この四つの言葉が書いてあったとして、その中に無限の宇宙がある。どういう風な間合いでやるか、どれくらい時間をあけるかとか、言葉から行間を逆に生み出して行く。言葉は大事ですが、むしろを言葉以外のサブテキスト,腹,内臓を作っていのに、一か月かけて稽古していくわけなんです。
オペラやらしていただいて思ったのは、音楽で全てが埋まっている。楽劇として音楽に切れ目がなく全部が埋まっていて行間には、予め全て意味がある。サブテキストが音楽という形で、書かれてしまっている。なんでここにこの音があるのか、この弦の意味はなんだろうということを絶えず考えていく、真逆の作業になるわけです。
解釈の仕方は何通りもある。ワグナーの場合、サブテキストの層が、すごく深いと言いますか。ダナエは陶酔感のまま突っ走って、それで現場を包み切れたんです。ところが、今回は僕自身でさえピリピリしてまして、1回こっちが入ってしまうとワグナーの書いてる音を見逃してしまう。それがすごく難しいと言いますか。


岡田:発している言葉の内容と、それについている音楽の表現する内容が違うということがワーグナーにはよくあります。

深作:
あるんですよね。例えば二幕のエルザとオルトルートのやりとり。すごく美しいわけです。エルザを騙そうという部分なのですが、どこまで彼女は本当に悪意なのか?悪意だけで演じていくと音楽から乖離して行きます。あそこでオルトルートが感じていることは一体何だろうと掘り出していく。オルトルートという人間を演じていく上で、悪だと割り切ってしまえば多分楽なのでしょうが。今回演じられる清水香澄さんも中村真紀さんも力強い憑依型の方たちなので安心ですが、役に入れば入るほど逆に落としていく側面があるのではないか。この美しい音楽に対してどうしてくれるかというようなことが課題でしょうか。


岡田:
今日は二幕を稽古をしていらっしゃったということですが、深作さんにとっての第二幕というものはどういうものなんですか。

深作:
二幕は長いのと、分かりやすくなっちゃうと休憩のようになってしまう。うっかり間違うと、二幕頭のテルラムントとオルトルートの場面は夫婦喧嘩で、ドラマの進行を止めてると言いますか。次への転がりになってかなきゃいけない大事なところなんですけども転がんないとえらいことになってしまう。ローエングリンを読み出して一番焦ったのは二幕でしたが、今は逆に一番楽しいです。何も知らずに幸福な結婚式に浸っているエルザの美しい音楽といったら!スコアの指示はエルサが出てくるまでに、ずいぶん時間があって、そこをどう見せるべきなのか。その後の群衆シーンで次の問題が出てくるんですが、そこを合唱と捉えてしまうと、休憩になってしまう。やっぱりお客さんていうのはある人物に感情移入していて、誰かにフォーカスしていないと、方向性を見失ってしまう。僕は今回は誰かが絶えず舞台に出ているようにつないでいこうと意図的に演出しています。


岡田:
合唱というキーワードを出していただきました。合唱は、非常に重要な役割を持ち、オペラの全編に出て来ます。合唱を個々の人間としてどういう風に扱っていくかどう動かして行くのでしょうか。

深作:
二期会合唱団が大好きなんですよね。画面に映る人間の全員を分かっている人間でありたいという思いが最初にあって、合唱シーンはすごく大事なんですけども、オペラの場合どうしても現場は時間に縛られていて、合唱シーンでそこまで入り込めないと後悔がよぎるわけです。じゃあ無記名なコロスとして、語り部としての合唱でいいのか。僕はそうもしたくない。
ソリストさんとの稽古で、何か一つでも動きを変えた時に、残りの9つぐらいワーグナーが音楽につけた意味を落としているんじゃないか・・・。そういう恐怖症に追い込まれていて、合唱の方達が入ってきて、圧倒的な大音量で語りが出てくると、もう何も動かさなくていいんじゃないかと。動かすと何かが間違ってしまうのではないかという、次の課題が出てきてしまうんですよね。合唱は抽象的な存在であるべきか、そこにいるべき人間かと考える時に、ローエングリンの場合は、非常に重要なもうひとつの主人公であるということなんです。合唱つまり群衆・民衆が最後にフューラーを選ぶわけですから。それぐらいローエングリンにとって群衆という存在はある種の主人公であると。20世紀を目前とした民衆の時代群衆の時代に至るまでの大切な主人公であると思っています。ローエングリンにとって最後にフューラーという言葉を導き出し、ローエングリンをもう一度呼び戻すある力と言いますか。女声合唱にエルザとある力が加わり、逆に言うと女たちの嘆きと叫びが呼び込んでいるわけで。最後の叫びをどこに言わせるべきかとか、どう叫ぶべきかというのは実はものすごく神経症みたいになっています。他のワーグナー作品の場合、合唱がある一つの役割しかやらないことが多いですよね。ローエングリーンの場合は全編にあって群衆が逆に言うと主要人物たちの動きをリードします。


岡田:
芸術的な問題とこうしなくちゃいけないという問題とこうしたいという問題の解決する一番ポイントを日々の稽古の中で見つけていくという・・・。

深作:
稽古場に入る前に100%脳の中で完成させておくというのも正しいと思うんです。僕はやっぱり現場が好きなもので、50% 印はしてるんですけども現場から生まれる議論を大切にしていきたいんですよね。間違いが正解だったりすることもあるんです。歌手の方とやっていて正直でありたいなと思っているんですね。歌手の方もわかってくると、だったら僕はこう動きたいってなってくる。


岡田:
これが世にいう「深作ワールド」ってやつなんですかね。僕は演劇の世界の人たちから聞いたんですけど、いつのまにか全部が深作さんのやりたかったような方向に、みんなが巻き込まれて、みんな自由にやってるんだけども、最終的には深作さんの思ったようになんか行ってるっていうような話を聞きます。現場の仕事の中から作り出していくという部分を常に持ってるからということなんでしょうかね。

深作:
人と人の付き合い方っていうのはいろんな関係性があると思うんです。蜷川さんの現場の稽古での引っ張り方は本当に素敵なものでした。そういうリーダーの時代が一つ終わって、今度僕の場合は一緒に作って行きたい。演出家の位置は、絶えず皆と一緒でありたい。
僕の普段の現場の場合、俳優さんたちは、新劇出身だったり宝塚出身だったりモデルさんだったりと、皆さん出てきた場所が違うんですよね。それぞれの演劇へのアプローチ方法も違いますし、プロデュース公演というシステムの中では、ルールを作るだけでまず精一杯になってしまう。
歌手の方たちとご一緒していると、まずそのルールを作らずに済む。皆さんがもう考え方もできてますし、お互い共演の数も現実的な場数もしっかりと踏んでいる。そして皆さんまた教育者でもあったりいろんな顔を持ってますので、演出家の一つの言葉を100にも200にも膨らましてくださる。それが最初二期会の歌手の方とご一緒して一番驚いたことだったんですね。こういう方面に行きたいんですけどどうしましょうと投げかけると、だったらさということが返って来て、一緒に作っていけてるという。特殊なのかもしれませんけども、今の二期会における自分がご一緒させていただく時の作り方と言いますか・・・。


岡田:
稽古場の環境、雰囲気まで伝わってくるとても面白い話でした。
もう一度作品の方に話を戻して。悲劇的な結末を迎える第三幕ですが、最初に婚礼の場面があります。一番女性的な場面だと僕は思うんですけども、前半の部分についてどういうふうにお考えですか。

深作:
一番難しいのは、エルザがなぜ禁問を破るのか。テキストだけ読んでいると、実はよくわからない。理屈をつけることは色々出来るんですが、直前にあれだけ素敵なデュエットがあって、夜の世界があって昼の世界があって・・・いろんな訳があると思いますが、ローエングリンがどこから来て、そこに帰ってしまうのねというのが、彼女にとって禁問を発してし行くことの決定的な瞬間になっていくわけです。しかし、テキストだけでとらえようとすると、言えば言うほど抽象的です。音楽が物凄い雄弁なんです。これがワーグナーやらせていただくことの魅力と言いますか、演劇の世界だとしたら、答えが言葉にないので、演じるのが大変です。音楽はそうじゃないんですよね。音楽がそのモチーフが鳴っているからこそ、彼女が禁問を発せられるといいますか・・・。そこの積み上がりがものすごくスリリングで、そうするとウェディングの前奏曲の意味合いが全てそこに持って行くまでの伏線、長いコンティニューなんだと。幸福がたった一個の問いで崩れていくまでの、なだらかな積み重ねと言いますか。ショーにしてしまってももちろんいけないし、そもそもあそこの場所でどういう風に歌うべきか歌わないべきかという議論になり続ける部分かと思います。


岡田:
後半で悲劇的な結末に至るわけですけども、その前にまた群衆が呼び寄せられて出てくる場面がありますよね。あの部分も音楽が非常に盛り上がるところですけれども、そこから結末までの解釈をお聞かせください。

深作:
ものすごいネタバレを含みますので、最後の「Lohengrin genannt」のところは置いておいて。彼が名を明かすということはどういうことなのか、なんですよね。劇としては彼が名乗ることで、何かを変えなくてはいけない。悲劇として読んで行くならば、エルザと彼のある愛の結末と言いますか。一方の史劇としての流れでは、せっかくの出陣が台無し、群衆は全てを失うと。今度、次の英雄が現れる。しかし悲しいかな音楽は不思議な調です。ハ長調には戻らないわけです。全然崩れていく。最後に出てくる次なるフューラー、ゴッドフリードの存在をある演出家はナチスに読み替えたり、異形の子供が生まれたり、色々なパターンがあったと思います。最終的に自分の場合はどこに落とすか。これははっきりと、「フューラー」という言葉から入っていきます。その言葉の危険性と音の不可思議さをどう表現するかということが大切かなと思っているんですね。少なくともハッピーエンドではない。おそらくワグナー唯一の悲劇というか、救済のない結末。救済がないとはどういうことかを考えなきゃなーと思っています。もう一つは、「Ich liebe」が唯一出てくる作品といいますか。その愛の帰結がどう変わっていくのか。


岡田:
最後にこの結末を、さっきから散々悲劇と言ってるんですが、本当に悲劇と思ってるのかどうかということを聞きたいです。

深作:
簡単な悲劇にはしたくないなぁと思っていて、人がフューラー(導き手)を求めるという事とはなんだろうという。政治、王権、宗教・・・もちろん絶対なのは芸術とワーグナーは言いたかったはずで、そのことをどうこちらで表現できるかということを思っています。


岡田:
こうやってお話を伺っていると、僕の今日の印象なんですが、弱い英雄と言うか・・・そういうものが、なんとなく深作さんそのものにも重なるような感じがしいます。先ほどその強いリーダーシップを強烈に発揮する世代からそうではない世代に変わってきたという、そういうお話が演出のコンセプトや考え方などと一体となって、なんとなく僕は今深作さんという人がちょっとわかったような気がするのですが、皆さんいかがでしょうか。

この後、客席からの質疑応答が行われ、21時を過ぎて、講演会は終了しました。
質疑応答の内容は、またの機会にお知らせすることとします。

取材・文:オペラ・エクスプレス編集部 / photo: Naoko Nagasawa


ワーグナー協会 第395回 例会
「ローエングリン」特集1
「深作 健太、《ローエングリン》演出を語る」

2018年1月27日(土)19時
カスケードホール(いきいきプラザ一番町B1)

講師:深作健太(演出家)
聞き手:岡田安樹浩(国立音楽大学講師)

【公演情報】
東京二期会オペラ劇場
《ローエングリン》
2018年2月21日(水)18:00/22日(木)14:00/24日(土)14:00/25日(日)14:00
東京文化会館 大ホール

※チケットなどの詳細は以下のリンクでご確認を※
http://www.nikikai.net/lineup/lohengrin2018/index.htm

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