群雄割拠の米国オーケストラ界。シェフや楽団員の世代交代が次々と進む中、2010年より現代楽壇の重鎮リッカルド・ムーティと歩んでいるのがシカゴ交響楽団だ。この組み合わせでの来日は3年前の2016年が初、今回が2度目となった。前回の来日は僅かに2公演(それでも鮮烈な印象を与えた)のみだったが、今回は日本側の合唱も加わった3プログラムが用意され、ムーティとシカゴ響の魅力をより幅広く味わえることになった。その中から日本公演初日、および翌日の『レクイエム』公演を聴く。
30日はブラームスの交響曲2曲という、ダブル・メインのプログラム。
ブラームス『交響曲第1番』の第一音が耳に入った瞬間、「ああ、シカゴ響とはこういう楽団だった」という3年前の驚きがすぐさま蘇った。管弦楽がひとつのポイントに密集して着地し、美麗に音楽が流れ出す。
構成要素を一つずつ見てゆきたい。弦楽器は最後列までピッチとボウイングが揃って全体を主導。そこに木管が交じり、金管は突出することを避けて響きを支える。「最強」の誉れ高い金管を擁するシカゴ響ではあるが、ブラームスを管楽器の饗宴にするような愚は犯さない。管弦楽全体が木質の響きで調和する演奏―ドイツはじめ、欧州団体のブラームスで顕著だ―とは異なり、各セクションは常に明晰に分離して耳に届く。晦渋に響くことの多い『第1番』が陽性に感じられたのは、上述したオーケストラの特色に加えて、ムーティが志向するブラームス像も当然関係していよう。彼は明るい色彩のオケに幾分任せ気味に振りつつ、要所では力強い両手で集中力を自らに凝集させる。
ムーティとシカゴ響、2つの個性は後半の『交響曲第2番』で更なる好相性を示した。謹厳実直・長年の歳月が費やされた『第1番』に比べ、自然美を想起させる伸びやかな旋律に富むゆえだろうか。第1楽章提示部の反復(これ自体は前半も行っていた)において、ムーティは指揮棒で図形を示さず両手で柔らかく弧を描き、弦の内声を抱き抱えるように振った。その時響きはふわりと立ち昇り、また1度目の登場時とは和声的なバランスも微妙に変化していた。単なる「反復」を超え、楽曲に一段と奥行きが与えられた瞬間である。指揮者の即興的なフレージングの変化に、腕っ扱き揃いの名門はどこまでも反応、返答する。その楽しげな対話ゆえか、悠揚迫らぬテンポで彫琢された中間楽章も間延びとは無縁だ。
そして翌日。ムーティの十八番・ヴェルディ『レクイエム』である。
楽団の自発的な表現に任せる場面もしばしば聴かれたブラームスに比べ、この日は指揮者が明らかに力強く全体を牽引。一瞬の隙も許さぬといった趣だ。
声楽陣も、見事に指揮の意図を汲む。指揮者とオーケストラの間に築かれたアンサンブル意識に声楽が交わることで、より繊細かつ重層的な音場が立ち上がる光景を目撃した。ムーティが信頼を置く歌手が揃った独唱陣は申し分無い高水準であり、特にテノールのメーリは曲を追うごとに調子を上げ、(録音に聴く)全盛期のカレーラスを彷彿とさせる輝かしい頭声で圧倒した。「我は嘆く(Ingemisco)」など完璧ではなかったか。歌と語りの狭間で言葉を紡ぐメゾのバルチェッローナ、重心低く4声を支えるベロセルスキーも見事で、ソプラノのイェオは細身ながら旋律線明晰な美声で終曲を彩った。声楽の起立位置やフレージングはムーティが丹念に示したが、厳格に律するのでなく、大枠の中である程度の自由を与えていたのも印象深い。
約120人の東京オペラシンガーズは、強者揃いの当団体ならではの量感に加え、幽けき下行音型を受け継ぐ冒頭部、母音と子音を繊細に配分した「怒りの日(Dies Iræ)」の喋り(特にQuantus tremor…以降)など、全曲随所でプロ合唱団の矜持を保つ名唱を見せつけ、鉄壁の布陣と十全に渡り合った。ムーティが大きくテンポを落とし、再び勢いを取り戻す大技を仕掛けた「我を救い給え(Libera me)」においても棒にピタリと付けたのは称賛されるべきであろう。
シカゴ響の充実はこの日も目覚ましく、「涙の日(Lacrymosa)」導入のヴァイオリンの僅かな強調、「奉献唱(Offœrtorium)」冒頭で上行するチェロなど、隅々に至るまで(不気味なほどに)アーティキュレーションが統一されている。更にこの日は、ブラームスでは背景に徹していた金管打楽器がここぞとばかりに轟き、3度現れる「怒りの日」ではまさに「恐怖のラッパ」としての畏怖を会場に刻み付けていた。彼らがどれほど咆哮してもトゥッティの響きが濁らず、弦や合唱とのバランスが格調高く保たれていたことも記しておきたい。
3プログラムが用意された今回のシカゴ響来日公演は、どれもムーティとシカゴ響双方の持ち味が活きる曲目が揃った。その中でも、オペラシンガーズと珠玉の独唱陣が加わった『レクイエム』公演が放った音楽の力に、完膚なきまでに打ちのめされた思いだ。これは上述した音響的な物凄さ以上に、ムーティが常に拘った典礼文の明晰さ、死者を悼むと共に現世の我々の生をも問うような音楽の厳しさに因るところが大きい。筆者はハ長調による厳粛な終結を聴きながら、直前に起きた痛ましい銃乱射事件に彼らが昨秋の当曲演奏を捧げたこと(シカゴ・トリビューン紙の評を参照されたい)を思い出していた。音楽家が持つ最良の意思表明手段が「音楽を奏でる」ことは言を俟たないだろうが、ムーティとシカゴ響が披露した「雄弁術」はあまりにも強力であった。
写真提供:シカゴ交響楽団 Photos by Chicago Symphony Orchestra
文:平岡 拓也 Reported by Takuya Hiraoka
リッカルド・ムーティ指揮 シカゴ交響楽団
所見:2019年1月30日、31日 東京文化会館 大ホール
(30日)
ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 Op. 68
ブラームス:交響曲第2番 ニ長調 Op. 73
~アンコール~
ブラームス:ハンガリー舞曲集 WoO 1より 第1番 ト短調
(31日)
ヴェルディ:レクイエム
ソプラノ:ヴィットリア・イェオ
メゾ・ソプラノ:ダニエラ・バルチェッローナ
テノール:フランチェスコ・メーリ
バス:ディミトリ・ベロセルスキー
合唱:東京オペラシンガーズ(合唱指揮:宮松重紀)
(以上、31日のみ)
管弦楽:シカゴ交響楽団
指揮:リッカルド・ムーティ
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