オペラ・エクスプレス

The opera of today from Tokyo, the hottest opera city in the world

年柄年中オペラ漬け。<オペラ暦>2016年9月—新井巌(あらいいわお)

年柄年中オペラ漬け。<オペラ暦>2016年9月—新井巌(あらいいわお)

オペラ暦9

【9月1日】日本が誇る世界的名指揮者小澤征爾の誕生日。

●1751年、モーツァルト(ウォルフガング・アマデウス・1756−91)『魔笛』の台本作者でもあり、シカネーダー一座の座長だったシカネーダー(エマヌエル・-1812)が、シュトラウビングで生まれています。彼は、俳優、歌手、演出塚としても活躍し、『魔笛』初演ではパパゲーノ役を自ら演じていました。またアン・デア・ウィーン劇場は彼によって設立されたのです。
●1854年、『ヘンゼルとグレーテル』を作曲したドイツの作曲家フンパーディンク(エンゲルベルト・-1921)が、ジークブルクで生まれています。昨今のウィキペディアで検索すると、彼の名をそのまま芸名としたかつてのイギリスのポップス歌手の名前がずらりと表示されるのもご愛嬌?です。
●1919年(大正8)、ヴェルディ(ジュゼッペ・1813−1901)『アイーダ』が、ロシア歌劇団によって帝劇で日本初演されました。
●1935年、日本を代表する世界的指揮者の小澤征爾が、中国の奉天(現・瀋陽市)で誕生しました。斎藤秀雄(1902-1974)から指揮を叩き込まれ、単身スクーターでヨーロッパを駆け巡り、飛び込みで参加したブザンソン指揮者コンクールで優勝。以後、カラヤン(ヘルベルト・フォン・1908-89)、ミュンシュ(シャルル・1891-1968)、バーンスタイン(レナード・1918-90)などの名指揮者の薫陶を受けました。ミュンシュが率いたボストン交響楽団の常任指揮者を29年にわたって務め、さらにアジア人で初めてウィーン国立歌劇場の音楽監督を8年務めるなど、まさに日本音楽界の至宝です。ウィーン・フィルの名誉団員の称号も受けられました。2015年から、今までのサイトウ・キネン・ファスティバル松本が、セイジ・オザワ松本フェスティバルとして再出発したのも当然の成り行きといえましょう。
●1988年、NHKホールでのスカラ座の来日公演において、イタリアの大指揮者ムーティ(リッカルド・1941-)の指揮で、ヴェルディ(ジュゼッペ・1813−1901)『ナブッコ』の本格的日本初演を果たしています。日本初演は意外に遅かったんですね。ただし1971年に、演奏会形式での初演(声専オペラ研究会・星出豊指揮)の記録はあります。


【9月2日】プッチーニの台本作者ジャコーザ、亡くなる。

●1906年、イタリアの台本作者ジャコーザ(ジュゼッペ・1847-)が、コッレレット・パレッラで亡くなっています。プッチーニ(ジャーコモ・1858-1924)の『マノン・レスコー』をはじめ、『ラ・ボエーム』『蝶々夫人』などをイッリカ(ルイージ・1857-1919)などと共作で手がけています。
●1995年、チェコの指揮者ノイマン(ヴァーツラフ・1920-)が、ウィーンで亡くなっています。チェコ・フィルを率いること20年以上、シュトゥットガルト国立歌劇場の音楽監督なども歴任し、またチェコの民主化運動では常に反体制側に立って行動しました。日本にも1969年以来9度の来日を果たしています。


【9月3日】浅草オペラの功績を改めて感じる日。

●1920年(大正9)、浅草オペラ華やかなりし頃、人気の新星歌舞劇団が分裂して、主力の伊庭孝(1887−1937)、清水金太郎(1889−1932)・静子(1896−1973)夫妻、田谷力三(1899-1988)、高田雅夫(1859−1929)などは金龍館に合流し、根岸大歌劇団を結成。残ったグループは松竹専属のミナミ歌劇団を作ったのです。浅草オペラは、ちょうど大正年間に一時的なオペラ・ブームをもたらしましたが、その後の日本のオペラの創成期を形作ったことでは、もっと評価しても良いでしょう。
●1931年、オーストリアの指揮者シャルク(フランツ・1863-)が、エトラハで亡くなっています。ブルックナー(アントン・1824-96)に師事し、彼の曲を普及させようと努めるあまり、様々な改変を行ったことでも知られています。晩年は、ウィーン国立歌劇場の総監督をシュトラウス(リヒャルト・1864-1949)とともに務めましたが、彼とは水と油で、やがてシュトラウスは去って行ったとか。


【9月4日】フランス6人組の一人ミヨー、誕生。

●1892年、フランスの作曲家ミヨー(ダリウス・-1974)が、エクス・アン・プロヴァンスで生まれています。多作家でもあり、オペラも10数曲残しています。代表作としては、『クリストフ・コロンブ』『オルフェの不幸』『マクシミリアン』などがあります。(亡くなった日の6月22日の項参照)
●1915年、ドイツのテノール歌手ショック(ルドルフ・-1986)が、デュースブルクで生まれています。第2次世界大戦後は、ベルリン、ハンブルクなどで活躍し、のちにウィーン国立歌劇場に所属。ザルツブルク音楽祭、バイロイト音楽祭などにも出演していました。


【9月5日】フランス・オペラの寵児マイアベーア、生まれる。

●1638年、フランス国王(治世1643-1715)ルイ14世(-1715)が、サンジェルマン・アン・レイで生まれました。太陽王と称され、壮大なヴェルサイユ宮殿を作らせたことで有名ですが、音楽やバレエにも造詣が深く、国王陛下の作曲家と呼ばれたリュリ(ジャン=バティスト・1632-87)を起用して多くのオペラ作品を書かせました。なお、亡くなったのは1715年9月1日、ヴェルサイユでした。
●1791年、ドイツ出身の作曲家マイアベーア(ジャコモ・-1864)が、ベルリンで生まれています。彼はパリに進出してから大活躍し、いわゆるグラントペラ(グランド・オペラ)形式という壮大かつ大規模なオペラの第一人者となったのです。代表作には、ヴェネツィア滞在時に『エジプトの十字軍』が大当たりし、パリに来てからは『悪魔のロベール』『ユグノー教徒』『預言者』『アフリカの女』など次々とヒットをとばし、現在でも欧米の歌劇場レパートリーに取り入れられています。
●1831年、フランスの劇作家サルドゥ(ヴィクトリアン・-1908)が、パリで生まれています。彼は、プッチーニ(ジャーコモ・1858-1924)の『トスカ』の原作者として知られていますが、他にもジョルダーノ(ウンベルト・1867-1948)の『フェドーラ』も彼の戯曲を基にしての作品でした。いずれも、当時の大女優サラ・ベルナール(1844-1923)のために書き下ろした戯曲です。
●1840年、イタリアのオペラ界の巨匠ヴェルディ(ジュゼッペ・1813−1901)のごく初期の作品『1日だけの王様または偽のスタニスラオ』が、ミラノのスカラ座で初演されています。ただし、この作品は極めて不評だったようで、そのために以後ヴェルディは喜劇オペラからは遠ざかり、最後の作品『ファルスタッフ』で喜劇オペラの大傑作を書き上げたのです。
●1883年、シューベルトの作品番号を整理したオーストリアの音楽学者ドイチュ(オットー・エーリヒ・-1967)が、ウィーンで生まれています。彼はシューベルトの全作品を網羅して番号を振り、D番号(通常はドイチュ番号)と名付けました。


【9月6日】3大テノール、パヴァロッティ様のご命日。

●1791年、モーツァルト(ウォルフガング・アマデウス・1756−91)が亡くなった年に作曲された最後のオペラ『皇帝ティートの慈悲』が、プラハ国民劇場で初演されています。いわゆるダ・ポンテ3部作や『魔笛』の後は、メタスタージオ(ピエトロ・1698−1782)の作を改作した台本による2幕のオペラ・セリアでした。このオペラが完成されたのは、初演の前日だったと言います。レオポルド2世(1747-92)の戴冠式が行われたこの日、それに合わせて上演されたのですが、皇后がつまらないドイツ物と言ったとかで、初演当初はあまり評判がよくなかったようです。
●1890年、日本での西洋音楽の礎を築いた指揮者・作曲家のグルリット(マンフレート・−1972)が、ベルリンで生まれています。1937年にナチスに追われるまでは、バイロイト、ブレーメン、そしてベルリン国立歌劇場の指揮者として活躍していましたが、ユダヤ人であるため亡命を余儀なくされ、近衛秀麿の助力で39年に初来日し、以後、藤原歌劇団やグルリット・オペラ協会などを設立して、オペラのみならず日本の音楽界全般に大きな足跡を残したのです。
●1928年、ソビエトの指揮者スヴェトラノフ(エヴゲニー・-2002)が、モスクワで生まれています。ボリショイ劇場の首席指揮者や、ソビエト国立交響楽団の首席指揮者を務めるなど、欧米各地でも活躍しました。
●2007年、3大テノールの一人パヴァロッティ(ルチアーノ・1935-)が、生まれ故郷のモデナで亡くなっています。1965年にスカラ座でデビューし、その美声とキャラクターによって、欧米各地で活躍。キング・オブ・ハイ・Cと呼ばれる輝かしい声は他の追随を許さない魅力を持った、戦後最高のテノールの一人でした。69歳にしてMETでカヴァラドッシを歌い、これが彼の最後の舞台となりました。享年71歳。


【9月7日】日本のハープ界の草分けは、バリトン歌手でした。

●1929年、オーストリア出身で長く日本に滞在し、日本で数多くのハープ奏者を育て上げたモルナール(ヨセフ・)が、ウィーンで生まれています。もともとウィーン少年合唱団に所属し、その後ウィーン・フィルのハープ奏者として活躍。戦後は、バリトン歌手としても活躍し、ドビュッシー(クロード・1862-1918)『ペレアスとメリザント』(1958)の日本初演ではゴロー役を見事に演じました。現在、日本ハープ協会の会長を務めています。


【9月8日】ドヴォルザークではなく、ドヴォルジャークと呼びましょう。

●1760年、イタリアの作曲家ケルビーニ(ルイージ・−1842)が、フィレンツェで生まれています。(9月14日という説もあり)ケルビーニの生涯を3期に分けるとすると、その2期目に多くのオペラを書き、ベートーヴェン(ルートヴィヒ・ヴァン・1770−1827)の『フィデリオ』にも影響を与えた救出オペラ『二日間』や『メーディア』『ロドイスカ』などを書いています。
●1815年、ヴェルディ(ジュゼッペ・1813−1901)の生涯の伴侶となったソプラノ歌手ストレッポーニ(ジュゼッピーナ・-1897)が、ロディで生まれています。『ナブッコ』初演の際にアビガイッレを歌い、以来ヴェルディから信頼をかち得て、のちに後妻としてヴェルディに献身的に尽くしました。『ラ・トラヴィアータ』は、彼女の辛い前半生をイメージして創作されたとも言われています。(異説もあります)
●1841年、ボヘミアの作曲家ドヴォルジャーク(アントニーン・—1904)が、プラハ近郊で生まれています。現地語では、ドヴォジャークに近い発音といわれていますが、まだまだドヴォルザークという呼び方が一般的なようです。本来ならなるべく言語に近い発音に訂正すべきでしょう(以後、このコラムではドヴォルジャークと表記します)。10作近いオペラを書いていますが、現在よく上演されるのは『ルサルカ』のみです。(亡くなった日の5月1日の項参照)
●1928年、戦後のオペラ界のスター的な存在だったテノール歌手の五十嵐喜芳(きよし・-2011)が、神戸で生まれています。日本人離れした甘いリリックなテノールは、イタリア・オペラでその本領を発揮。藤原義江(1898-1976)亡き後は藤原歌劇団の総監督となり、さらに1999年から2003年まで新国立劇場オペラ芸術監督を務めました。
●1929年、ドイツの指揮者ドホナーニ(クリストフ・フォン・)が、ベルリンで生まれています。祖父はハンガリーの作曲家エルンスト・フォン・ドホナーニ(1877 -1960)。オペラと管弦楽とともによくし、とくにハンブルク国立歌劇場音楽監督時代には、新作オペラや新演出を積極的に起用し大きな反響を呼びました。
●1974年、戦後最高のヘルデンテノールと言われたヴィントガッセン(ウォルフガング・1914-)が、シュトゥットガルトで亡くなっています。同地の歌劇場の監督も務め、演出にも意欲を見せましたが、この日心臓発作で亡くなったのです。彼の名を一躍高らしめたのは1951年バイロイトでの『パルジファル』でした。その後、ニルソン(ビルギット・1918-2005)とのコンビで『トリスタンとイゾルデ』や『指環』を歌って、ワーグナー・フアンを熱狂させました。(誕生日の6月26日の項参照)
●1995年、オーストリアのバス=バリトン歌手クンツ(エーリヒ・1909-)が、ウィーンで亡くなっています。主としてウィーン国立歌劇場で活躍し、宮廷歌手の称号も得ています。とくにレポレッロやフィガロなどでは軽妙な演技と歌唱によって人気を集めました。また、彼の歌ったドイツの学生の歌も素晴らしいものでした。(誕生日の5月20日の項参照)


【9月9日】ロシアの文豪トルストイは、オペラがお嫌い。

●1828年、ロシアの世界的文豪トルストイ(レフ・-1910)が、ヤスナヤ・ポリャーナで生まれています。彼自身オペラは大嫌いで、チャイコフスキー(ピュートル・イリイチ・1840-93)にもオペラを書くことをやめるように忠告したとも言われています。しかし、皮肉な事に彼の代表作『戦争と平和』はプロコフィエフ(セルゲイ・1891−1953)が、『復活』はアルファーノ(フランコ・1875−1954)がオペラ化しています。地下のトルストイは何を思ったのでしょうか。
●1833年、イタリアの作曲家ドニゼッティ(ガエターノ・1797−1848)『トルクァート・タッソー』が、ローマのテアトロ・ヴァッレで初演されています。題名のタッソー(トルクァート・1544-1595)は、1544年に生まれたイタリア・ルネサンス最大の詩人で、その生涯は波乱に満ちたものでした。彼の叙事詩はしばしばバロック・オペラの題材となり、リュリ(ジャン=バティスト・1632-87)、ヘンデル(ジョージ・フレデリック・1685−1759)なども取り上げ、さらに彼を題材にしたゲーテ(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・1749-1832)の戯曲なども残されています。
●1960年、スウェーデンのテノール歌手ビョルリンク(ユッシ・1911-)が、ストックホルム近郊のサロで亡くなっています。彼はモーツァルト、ロッシーニ、ヴェルディ、プッチーニなどレパートリーが広く、とくにロドルフォは彼が生涯で最も多く演じた役でした。亡くなる20日前にストックホルムでコンサートを開いたのが最後のステージとなりました。(誕生日の2月5日の項参照)


【9月10日】スペインの名テノール、クラウス亡くなる。

●1714年、イタリアの作曲家ヨンメッリ(ニコロ・-1774)が、ナポリ近郊のアヴェルサで生まれています。彼はボローニャ、ローマなどで活躍後、シュトゥットガルトの公爵家に仕え、そこで多くのオペラを創作したのです。(亡くなった日の8月25日の項参照)
●1838年、べルリオーズ(エクトール・1803-69)の2幕のオペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』が、パリ・オペラ座で初演されています。ベンヴェヌート・チェッリーニ(1500-71)は、ルネサンス期の芸術家で、絵画、金細工、彫刻、音楽などを手がけ、今日でいうマルチ・タレント。奔放な生涯を綴った自伝が有名で、その自伝をもとにベルリオーズがオペラ化したのです。
●1893年、日本のオペラ界の草分けでもあったソプラノ原信子(-1979)が、青森で生まれています。10歳の時に三浦環(1884-1946)に師事し、帝国劇場歌劇部、赤坂ロイヤル館などを経て、自ら原信子歌劇団を結成。浅草オペラのスターとして活躍しましたが、その後アメリカ、ヨーロッパに渡り、スカラ座では日本人として初めて専属歌手として舞台に立っています。
●1975年、オーストリアの指揮者スワロフスキー(ハンス・1899-)が、ザルツブルクで亡くなっています。ヨーロッパを中心に各歌劇場で活躍しましたが、むしろ彼の功績はアッバード(クラウディオ・1933-2014)やメータ(ズービン・1936-)などを育てたことが評価されています。
●1999年、スペインの生んだ名テノール歌手クラウス(アルフレード・1927−)が、マドリードで亡くなっています。彼の声質であるテノーレ・リリコ・レッジェーロ以外のレパートリーは頑なまでに歌わず、それゆえに彼の歌手生活は壮年になっても衰えを知りませんでした。その品格ある歌いぶりと端正な舞台姿は3大テノールとは違った大きな魅力でした。この月の24日に72歳の誕生日を迎える直前の逝去でした。


【9月11日】『道楽者のなりゆき』ヴェネツィアで初演。

●1825年、ドイツの音楽評論家、音楽学者ハンスリック(エドゥアルト・-1904)が、プラハで生まれています。彼は音楽評論を専門とした初めての人でした。長年にわたって、ワーグナー(リヒャルト・1813−83)との論争が繰り広げられました。(亡くなった日の8月6日の項参照)
●1951年、ストラヴィンスキー(イゴール・1882−1971)『道楽者のなりゆき』が、ヴェネツィアのフェニーチェ劇場で彼自身の指揮で初演が行われました。このころのフェニーチェ劇場はつねに革新的なオペラを次々に発表していました。
●1993年、オーストリア出身のアメリカの指揮者ラインスドルフ(エーリヒ・1912-)が、チューリヒで亡くなっています。オペラ指揮者として欧米をまたに活躍し、またボストン交響楽団の常任指揮者も務めました。(誕生日の2月4日の項参照)


【9月12日】ラモーのオペラ創作は、遅咲きだった。

●1764年、フランスの作曲家・理論家のラモー(ジャン=フィリップ・1683-)が、パリで亡くなっています。彼が本格的なオペラを書き始めたのは、50歳からでした。『イッポリトとアリシー』『カストールとポリュクス』など次々と傑作を発表しますが、折しもペルゴレージの『奥様女中』が再演されたことをきっかけに、フランスとイタリアの音楽の優劣をめぐる「ブフォン論争」が起こり、ルソーなども加わり、フランス派は不利な状況に追い込まれました。そうしたことに嫌気をさしたラモーは23冊もの音楽理論書を執筆。そして最後のオペラ『レ・ポレアド』(現在では蘇演されています)を準備中に80歳の生涯を閉じたのです。
●1938年、アメリカのメッゾ・ソプラの歌手トロヤノス(タティアーナ・-1993)が、ニューヨークで生まれています。アメリカ出身ですが、どちらかといえばヨーロッパでの評価が高く、コヴェント・ガーデンやザルツブルク音楽祭などで活躍しました。(亡くなった日の8月21日の項参照)


【9月13日】20世紀音楽を変革したシェーンベルク誕生。

●1874年、オーストリアの作曲家シェーンベルク(アルノルト・-1951)が、ウィーンで生まれています。彼なくしてはいわゆる十二音技法も存在しなかったかもしれません。何よりも20世紀前半の音楽界に決定的な影響力を持ったことは、誰しも否めない事実でしょう。また彼のもとからは、20世紀音楽を牽引したウェーベルン(アントン・1883-1945)、ベルク(アルバン・1885-1935)などが輩出し、さらにケージ(ジョン・1912-92)、ハリソン(ルー・シルヴァー・1917-2003)なども巣立っていったのです。(亡くなった日の7月13日の項参照)
●1894年、フランスの作曲家シャブリエ(アレクシス=エマニュアル・1841−)が、パリで亡くなっています。彼のオペラとしては『エトワール(星)』が有名ですが、『トリスタンとイゾルデ』を聞いてから、ワーグナー(リヒャルト・1813−83)に傾倒し、またさまざまな調性を用いた手法は、その後のフォーレ(ガブリエル・1845-1924)、ドビュッシー(クロード・1862-1918)などにも大きな影響を与えました。(誕生日の1月18日の項参照)
●1929年、ブルガリア出身のバス歌手ギャウロフ(ニコライ・-2004)が、ヴェリングラードで生まれています。戦後最高のバス歌手と讃えられ、晩年は名ソプラノ歌手フレーニ(ミレッラ・1935-)と再婚しています。亡くなる前月にデビュー役だったドン・バジーリオをフェニーチェ劇場で歌ったのが最後の舞台でした。(亡くなった6月2日の項参照)
●1971年、イタリアのオペラ作曲家ドニゼッティ(ガエターノ・1797−1848)『ラ・ファボリータ』(当時の表記)が、第6次イタリア歌劇団によって日本初演されています。この時の出演は、ブルスカンティーニ、(セスト・1919-2003)、コッソット(フィオレンツァ・1935-)、クラウス(アルフレード・1929-99)、ライモンディ(ルッジェーロ・1941-)と、まさに綺羅星のごとく名歌手揃い踏みでした。


【9月14日】イタリアの大詩人ダンテのご命日。

●1321年、イタリアの国民的詩人ダンテ(アリギエーリ・1265-)が、ラヴェンナで亡くなっています。彼の代表作といえばなんといっても『神曲』で、少女ベアトリーチェの面影を追った傑作です。トマ(アンプロアス・1811-96)、ラフマニノフ(セルゲイ・1873-1943)、ザンドナーイ(リッカルド・1883-1944)によって、『神曲』の地獄編をもとにしたダンヌンツィオ(ガブリエーレ・1863-1938)の戯曲による『フランチェスカ・ダ・リミニ』がオペラ化されています。
●1885年、イタリアの指揮者グイ(ヴィットーリオ・-1975)が、ローマで生まれています。トスカニーニ(アルトゥーロ・1867−1957)の招きでスカラ座を指揮し、日本では第1次イタリア歌劇団の一員として『アイーダ』を指揮しています。
●1951年、ドイツの指揮者ブッシュ(フリッツ・1890-)が、ロンドンで亡くなっています。戦前は、ベルリンやバイロイトで活躍し、ナチに追われてブエノスアイレスのコロン劇場へ移っています。その後、グラインドボーンで成功を収め,さらにアメリカに渡りモーツァルトなどで高い評価を得ました。
●1954年、イギリスを代表する作曲家ブリテン(エドワード・ベンジャミン・1913−76)『ねじの回転』が、ヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演されています。原作はジェイムス(ヘンリー・1843-1916)の同名の小説で、2人の孤児からその家庭教師が、以前いた家庭教師の亡霊から守ろうとするサイコロジックな作品。14人という小編成の室内オペラの傑作と言われています。
●その翌年の1955年、ロシアのプロコフィエフ(セルゲイ・1891−1953)の5幕のオペラ『火の天使』が、同じくフェニーチェ劇場で初演されています。舞台は16世紀のドイツの魔女裁判を題材にしていますが、これは当時のソ連の政治体制を皮肉ったものとの解釈もあります。このころのフェニーチェ劇場は、上記作品も含め1951年にはストラヴィンスキー(イゴール・1882−1971)『道楽者のなりゆき』など、ほとんど毎年のごとく20世紀オペラの代表作となる作品を初演し続けたのです。


【9月15日】ブルーノ・ワルター誕生。

●1876年、20世紀を代表する大指揮者の一人ワルター(ブルーノ・-1962)が、ベルリンで生まれています。ドイツ出身ながら若くしてウィーンで頭角を現し、マーラー(グスタフ・1860−1911)に師事。ドイツでは各劇場の音楽監督などを務めましたが、1933年ナチスの迫害により、ドイツを去りウィーンに移ったもののここからも追われ、その後はアメリカで活躍し、数多くの録音を残しています。(亡くなった日の2月17日の項参照)
●1897年、ドイツのバス=バリトン歌手シェフラー(パウル・-1977)が、ドレスデンで生まれています。戦前から戦後にかけて、ウィーンを中心に活躍し、『ダナエの愛』『ダントンの死』での初演にも参加。ウィーン歌劇場のメンバーとして来日した時は、アルマヴィーヴァ伯爵を演じていました。
●1917年、オーストリアのソプラノ歌手ギューデン(ヒルデ・-1988)が、ウィーンで生まれています。正式なオペラ・デビューはケルビーノ役で、その後『ばらの騎士』のゾフィーなどを歌って好評を博しました。最年少での宮廷歌手という称号を与えられています。
●1945年、アメリカのソプラノ歌手ノーマン(ジェシー・)が、オーガスタで生まれています。ベルリン・ドイツ。オペラでエリーザベト(タンホイザー)を歌ってデビューし、その後多くのオペラハウスでも圧倒的な歌唱力と存在感で、現代最高のソプラノの一人とされています。日本では第1回サイトウ・キネン・フェスティバル松本(1992)で『エディプス王』に出演しています。


【9月16日】20世紀最大の歌姫カラス、亡くなる。

●1899年、オーストリアの指揮者スワロフスキー(ハンス・-1975)が、ブダペストで生まれています。キャリアは違いますが、日本で言えば斎藤秀雄(1906-1974)的な存在で、指導者としてその後の音楽界を背負って立つ指揮者を指導したことが大きな功績でした。(亡くなった日の9月10日の項参照)
●1912年、なんとなく『道化師』一本みたいに思われがちなレオンカヴァッロ(ルッジェーロ・1857-1919)ですが、オペラ作品は結構残しています。その中でこの『ズィンガリ(ジプシーたち)』は珍しく、この日ロンドンで初演されています。プーシキン(アレキサンドル・1799-1837)の物語詩を題材にしたもので、ジプシーの娘と彼女に憧れる王子の恋物語。
●1945年、アイルランド出身のアメリカのテノール歌手マッコーマック(ジョン・1884-)が、ダブリンで亡くなっています。20世紀を代表するテノールの一人であるにもかかわらず、今日ではほとんど知られなくなりました。彼の故郷であるアイルランド民謡は絶品であったと言われています。(誕生日の6月14日の項参照)
●1966年、アメリカの作曲家バーバー(サミュエル・1910-81)『アントニーとクレオパトラ』が、メトロポリタン歌劇場で初演。この日、同劇場が新しくなったその記念公演として上演されたのです。原作はもちろんシェイクスピア(ウイリアム・1564-1616)で、これをゼッフィレッリ(フランコ・1923-)が3幕の台本に仕上げました。
●1977年、ギリシャの名ソプラノ歌手カラス(マリア・1923-)が、パリで亡くなっています。そのドラマティックな歌唱と演技力は、多くのオペラ・ファンを魅了しました。また彼女ほど、オペラ界以外でも大きな話題を撒いた歌手もいないでしょう。彼女は、今まで埋もれていた作品なども復活上演し、日本には1973年に、かつての恋人ともいわれたディ・ステーファノ(ジュゼッペ・1921-2008)を伴ってコンサートを行っています。


【9月17日】将来を嘱望された名テノール、ヴィンダーリヒ事故死。

●1795年、イタリアの作曲家メルカダンテ(サヴォーリオ・−1870)が、バリ近郊のアルタムーラで受洗を受けています。(前日が誕生日という説もあります)ロッシーニの後継者として、ベッリーニ(ヴィチェンツィオ・1801—35)、ドニゼッティ(ガエターノ・1797−1848)などとともに一時代を築きました。『山賊』『ヴェスタの巫女』『無頼漢』などのオペラがあります。やがて、ヴェルディ(ジュゼッペ・1813−1901)が頭角を現し、次第に忘れ去られてしまったのです。
●1966年、ドイツのテノール歌手ヴィンダーリヒ(フリッツ・1930-)が、ハイデルベルクで亡くなっています。メトロポリタン歌劇場デビューを数日後に控えたその日、友人の別荘の階段から転落して、将来を嘱望されながらわずか36歳という若さでその望みを絶たれたのです。
●1988年、オーストリアのソプラノ歌手ギューデン(ヒルデ・1917-)、ウィーンで亡くなっています。1973年に引退。日本へは66年に初来日しています。わずか2日前が71歳の誕生日でした。(誕生日の9月15日の項参照)


【9月18日】お人好しの作曲家フランケッティの功績は?

●1860年、イタリアの作曲家フランケッティ(アルベルト・-1942)が、トリノの裕福な男爵家に生まれています。彼の代表作『クリストフォロ・コロンボ』は、ジェノヴァ市からコロンブスのアメリ大陸発見400年祭の記念として委嘱されたもの。とはいえ、『トスカ』や『アンドレア・シェニエ』のオペラ化権をあっさり他人に譲ってしまったのは、やはり育ちの良さゆえの人柄だったのでしょうか?(亡くなった日の8月4日の項参照)
●1878年、ボヘミアの作曲家スメタナ(ベドルジフ・1824-84)の3幕のオペラ『秘密』が、プラハで初演されています。18世紀末のボヘミアの小さな村を舞台で繰り広げられる寓話的な内容のようです。
●1934年、チェコの作曲家ヤナーチェク(レオシュ・1854−1928)の3幕のオペラ『運命』が、ブルノで放送初演されています。1900年頃のモラヴィアを舞台とした自伝的な内容とのことです。舞台初演は、24年後の1958年でした。
●1971年、今をときめくスター歌手のソプラノ、ネトレプコ(アンナ・ユーリュウチ・)が、ロシアのクラスノダールで生まれています。幅広いレパートリーと卓越した実力、そして舞台映えする美貌で世界のオペラハウスからオファーが絶えません。


【9月19日】METの名花シーボム、生まれる。

●1915年、アメリカのメッゾ・ソプラノ歌手シーボム(ブランシュ・-2010)が、ペンシルベニア州モネッセンで生まれています。といっても、よほどのオペラ・ファンでなければと、この名を知らない人の方が多いでしょう。彼女の名前は、メトロポリタン歌劇場で販売しているダイアリーで見つけました。『栄光のオペラ歌手を聴く!』(音楽之友社刊)でも、わずかに「メトのワーグナー上演の常連だった」とだけ記されています。とくに『トリスタンとイゾルデ』のブランゲーネでは定評があったとか。そのほか、アムネリス、カルメン、ドラベッラなど、メッゾ・ソプラノの主要な役をさまざまに演じていました。写真を見ると、なかなかの美形ですので、映画『カルーソー』にも出演。晩年はアトランタ・オペラの音楽監督や後進の声楽指導などを行っていたようです。2010年3月23日、サンフランシスコで94歳の天寿を全うしています。


【9月20日】シベリウスのご命日。

●1957年、フィンランドの国民的作曲家シベリウス(ヤン•1865-)が、ヤルヴェンパーで亡くなっています。91歳という生涯でしたが、完成されたオペラは、1896年に初演された『塔の中の少女』ただ1曲のみ。また、有名な『トゥオネラの白鳥』は、このオペラの前奏曲として発想されたものだと言います。
●1968年、イタリアの作曲家ダルラピッコラ(ルイージ・1904-75)『ウリッセ』が、ベルリンで初演されています。ホメロスの『オデュッセイア』を基に、作曲者自身のイタリア語台本を書いた、自身が生涯の総決算と位置づけた力作です。


【9月21日】稀代の興行師シカネーダー、ウィーンに死す。

●1812年、『魔笛』の台本作者でもあり、アン・デア・ウィーン劇場の支配人でもあったシカネーダー(エマーヌエル・1751-)が、ウィーンで亡くなっています。生涯に55の舞台作品、44のオペラ台本(ジングシュピール)を書いたと言いますが、晩年は、今で言えば認知症となって意味のわからない言動の結果、この日静かな死を遂げたといいます。評伝として『シカネーダー「魔笛」を書いた興行師』(原研二著・平凡社)がありますのでご一読を。(誕生日の9月1日の項参照)
●1832年、スコットランドの詩人・劇作家スコット(ウォルター・1771-)が、アポッツフォードで亡くなっています。詩人から劇作家に転向した彼の作品『湖上の美人』『アンバンホー』『ラマームーアの花嫁』『美しいパースの娘』など、数多くの作曲家の想像力の源泉となったのでした。彼の旧邸宅は、アポッツフォード邸として資料館となっています。(誕生日の8月15日の項参照)
●1874年、イギリスの作曲家ホルスト(グルターフ・-1943)が、チェルトナムで生まれています。セント・ポール女学校(この生徒のために作曲した『セント・ポール組曲』が有名です)で音楽を教えるかたわら作曲にも傾注し、日本では組曲『惑星』がとくに有名。オペラも手がけ、シェイクスピア(ウイリアム・1564-1616)の『ヘンリー4世』の一部を題材にした『ボアーズ・ヘッド亭』や室内オペラ『放浪学者』などがあります。(亡くなった日の5月25日の項参照)


【9月22日】いやいやながらの『ラインの黄金』初演。

●1869年、『ニーベルンクの指環』4部作の序夜にあたるワーグナー『ラインの黄金』が、ミュンヘン宮廷歌劇場で初演されています。これはルートヴィヒ2世(1845-86)が、4部作完成まで待ちきれずに、序夜と第1夜『ワルキューレ』を先行して上演させたのです。もちろん、まとめて上演したかったワーグナー(リヒャルト・1813−83)は大いに不満でした。でも大スポンサーには逆らえませんものね。
●1905年、フランスのメッゾ・ソプラノ歌手ガリ=マリエ(マリ・セレスティーヌ・1840-)が、ヴァーンズで亡くなっています。『カルメン』のタイトルロールを創唱した歌手として有名。あの「ハバネラ」も彼女がビゼーに注文をつけて、作らせたとか。他にもトマ(アンプロアス・1811-96)『ミニヨン』やオッフェンバック(ジャック・1819-80)のオペレッタなどの初演にも参加しています。


【9月23日】大作曲家、大作家、名歌手たちが、亡くなった日。

●1732年、ペルゴレージ(ジョヴァンニ・バッテスタ・1710-1736)の3幕のオペラ『妹に恋した兄』が、ナポリで初演。いわゆる取り違え物語で、最後は近親相姦?にもならずにめでたく結ばれる幕になるという筋書きです。
●1835年、ベル・カント・オペラの代表的なイタリアの作曲家ベッリーニ(ヴィンチェンツィオ・・1801—35)が、パリ近郊で亡くなっています。彼は音楽史上でも他の追随を許さないほど美しい旋律を書く天才で、「カターニャの白鳥」と呼ばれたほどでしたが、生来の病弱の身で過労から健康を害し、わずか33歳という若さで生涯を閉じたのです。
●1836年、スペインの伝説的なメッゾ・ソプラノ歌手マリブラン(マリア・1808-)が、マンチェスターで亡くなっています。父は著名なテノール歌手であり作曲家。彼女はニューヨークで銀行家マリブランと結婚しますが、すぐに離婚。再婚後もこの姓で舞台に出ていました。現在、彼女の名を冠したヴェネツィアのマリブラン劇場は、当時のサン・ジョヴァンニ・グリゾストモ劇場が財政難に陥った時に、彼女が多額の寄付や無料で出演をした事への感謝から名付けられたと言います。しかし、人気絶頂のわずか28歳で落馬事故がもとで亡くなったのです。彼女の死を悼んだ詩人ミュッセ(アルフレッド・ド・1810-57)は、彼女のためのオードを書いたほどでした。同じメッゾ・ソプラノのバルトリ(チェチーリア・1966-)が歌ったCD『マリア』(UCCD1194)は、マリブランが歌った曲を集めたトリビュート・アルバムです。
●1870年、フランスの作家メリメ(プロスペル・1803-70)が、滞在先のカンヌで亡くなっています。『カルメン』の原作者としてあまりにも有名。彼は作家であると同時に考古学者・歴史学者でもあり、フランスの歴史的記念物を管理保護する監督官でもありました。
●1956年、ドイツの作曲家ヘンツェ(ハンス・ヴェルナー・1926-2012)『鹿の王』が、ベルリンで初演。イタリアのゴッツィ(カルロ・1720−1806)の喜劇に基き、かつてのベル・カント・オペラを摸して描いた作品とか。
●2011年、日本のオペラ界に大きな足跡を残したテノール歌手で、現役を退いてからは名オペラ・プロデューサーとして活躍した五十嵐喜芳(きよし・1928-)が、東京の自宅で亡くなっています。没後に出版された『五十嵐喜芳自伝 わが心のベルカント』(水曜社刊)での奥様のあとがきに、「家族での夕食会の翌暁自宅にて突如、あの世に旅立ってしまいました。大変に心地好さそうな表情で・・・」とお書きになっています。奇しくも彼が愛したベッリーニの命日と同じになりました。この9月に誕生日を迎えたばかりでした。享年83歳。(誕生日の9月8日の項参照)


【9月24日】名歌手バスティアニーニ、クラウスの誕生日。

●1819年、イタリアの大作曲家ロッシーニ(ジョアッキーノ・1792-1868)のオペラ『湖上の美人』が、ナポリ・サンカルロ歌劇場で初演されています。イギリスの小説家スコット(ウォルター・1771-1832)の原作に基づいたドイツ・ロマン派風の作品。最近も、METで復活上演されたので、ライブ・ビューイングでご覧になった方も多いのでは。
●1922年、イタリアのバリトン歌手で、理想のヴェルディ・バリトンと呼ばれたバスティアニーニ(エットーレ・−1967)が、シェーナで生まれています。歌よし、姿よしのバリトンでしたが、45歳という若さで亡くなっています。日本にも63年に来日しルーナ伯爵を歌っています。(亡くなった日の1月25日の項参照)
●1927年、スペインのテノール歌手クラウス(アルフレード・-1999)が、ラ・パルマ島で生まれています。天性の美声に加えて、当初から超高音にも恵まれ、『マノン』『ウェルテル』『夢遊病の女』『清教徒』『リゴレット』など、自分自身の声質にあった役しか歌わなかったことが、彼の歌手生活を長期に保ったのです。70歳を過ぎてもほぼ生涯現役歌手という奇跡的な声の持ち主でした。(亡くなった日の9月10日の項参照)


【9月25日】バロック・オペラの復活でラモーにも注目。

●1683年、フランスの作曲家・理論家ラモー(ジャン=フィリップ・−1764)が、ディジョンで受洗されています。若い頃は各地の大聖堂のオルガン奏者として活躍。ラモーが本格的にオペラの作曲に乗り出したのは、50歳の時。いわゆるオペラ=バレの名曲として名高い『優雅なインドの国々』をはじめ、オペラ『カストールとポリュクス』『エベの祭り』『ダルダニュス』など多数のオペラを作曲。また最初のオペラ・コミック『プラテー』などは、最近になって盛んに上演されています。(亡くなった日の9月12日の項参照)
●1921年、ヴェルディ(ジュゼッペ・1813−1901)『イル・トロヴァトーレ』が、根岸第歌劇団によって初演されたという記録がありますが、本格な日本初演は翌年のロシア歌劇団によるものとの説が濃厚です。
●1927年、イギリスの指揮者ディヴィス(コリン・-2013)が、ウェイブリッジで生まれています。家が貧しかったためピアノではなくクラリネットが彼の最初の楽器でした。のちにクレンペラー(オットー・1885-1973)やビーチャム(トーマス・1879-1961)の代役でチャンスを広げ、1977年にはイギリス人として初めてバイロイト音楽祭に招かれて『タンホイザー』を振っています。モーツァルトやブリテンのオペラの演奏には定評がありました。


【9月26日】とにかく、今日は話題の多い日です。

●1782年、イタリアの作曲家パイジェッロ(ジョヴァンニ・1740-1816)『セビリアの理髪師または無駄な用心』が、ペテルブルクのエルミタージュ帝国劇場で初演されています。今日では『理髪師』といえばロッシーニ(ジョアッキーノ・1792-1868)と誰もが連想しますが、実はロッシーニは34年後に同名のオペラを書いたのです。その結果、残念ながらパイジェッロのこの曲はほとんど顧みられなくなりました。
●1813年、そのロッシーニの『試金石』が、ミラノ・スカラ座で初演されています。すでにヴェネツィアで活躍していた若手作曲家として彼の文字通りの試金石でもありました。
●1835年、イタリアの作曲家ドニゼッティ(ガエターノ・1797−1848)の代表作『ランメルモールのルチア』が、ナポリ・サンカルロ歌劇場で初演されました。スコット(ウォルター・1771-1832)の『ラマームーアの花嫁』に基づき、カンマラーノ(サルヴァトーレ・1801−52)がイタリア語台本を製作。主人公ルチアが新婚の夜に新郎を刺し殺して、血まみれになって歌う「狂乱の場」は、ベル・カント・オペラの大きな特徴になったほどでした。
●1898年、アメリカの作曲家ガーシュイン(ジョージ・-1937)が、ニューヨークのブルックリンで生まれています。ポピュラー音楽とクラシック音楽を両立させた才能は、まさに天才でした。オペラでは、『ポーギーとベス』で不動の地位を獲得した彼は、兄のアイラ(1896-1983)とともに、数多くの歌曲も作曲。さらに『ラプソディ・イン・ブルー』『パリのアメリカ人』など、まさにアメリカ音楽の代表作にもなっています。
●1930年、ドイツのテノール歌手ヴィンダーリヒ(フリッツ・-1966)が、クーゼルで生まれています。若くしてウィーン国立歌劇場との出演契約を交わし、ヨーロッパ各地で活躍。まさにこれからという時期に事故死してしまいました。パバロッティ(ルチアーノ・1935-2007)をして、歴史上最高のテノールと言わしめたほどの才能でした。(亡くなった日の9月17日の項参照)
●1945年、ハンガリーの作曲家バルトーク(ベーラ・1881-)が、ニューヨークで亡くなっています。彼が残した唯一のオペラ『青ひげ公の城』は、20世紀オペラの代表作の一つとされています。(誕生日の3月25日の項参照)
●1957年、アメリカの指揮者であり作曲家でもあったバーンスタイン(レナード・1918-90)のミュージカル『ウエスト・サイド・ストーリー』が、ニューヨークのブロードウェイで初演。以後、734回というロングラン記録を打ち立てています。内容は、『ロメオとジュリエット』を、ニューヨークのハーレムを舞台に移し替えた悲恋物語。1961年には映画化され、さらに人気を勝ち得ました。作詞は、まだ20代だったソンドハイム(スティーヴン・1933-)が担当しました。


【9月27日】反骨と苦悩の作曲家ショスタコヴィチ、誕生。

●1725年、ドイツ・バロック期の作曲家テレマン(ゲオルク・フィリップ・1861-1767)『ピンピノーネ(または不釣り合いな結婚)』が、ハンブルクのグンゼマルク歌劇場で初演されています。元々はアルビノーニ(トマゾ・1671−1751)の同名のオペラをアレンジしたもの。ヘンデル(ジョージ・フレデリック・1685−175のオペラ『タメルラータ』上演のインテルメッゾとして上演されたのです。当時はこういうことが通常に行われていたのですね。
●1906年、ロシア・ソ連の作曲家ショスタコヴィチ(ドミトリー・-1975)が、モスクワで生まれています。若いころはストラヴィンスキーなどの影響を受け、演出家のメイエルホリド(フセヴォロド・1874-1940)の交流から生まれた最初のオペラ『鼻』では、日常会話の抑揚を結びつけた朗唱形式を確立。さらに『ムツェンスク郡のマクベス夫人』では、その奔放な作風がソ連当局に批判され、のちに『カテリーナ・イズマイロヴァ』として改訂。ソ連時代の芸術家としてさまざまな葛藤をしながら、自己の芸術を貫いた作曲家でした。
●1921年、ドイツの作曲家フンパーディンク(エンゲルベルト・1854-)が、ノイシュトレクツで亡くなっています。ワーグナー(リヒャルト・1813−83)の一番忠実な弟子として、彼の作風を受け継ぎながら、彼とはまた別の路線を歩んだ作曲家でした。代表作は、有名な童話に材をとった『ヘンゼルとグレーテル』。
●1921年(大正10)、来日したロシア歌劇団によって帝劇で『ラ・ボエーム』の日本初演がなされました。
●1957年、アメリカの演出家セラーズ(ピーター・)が、ピッツバークで生まれています。彼が演出した『コジ・ファン・トゥッテ』では、なんと舞台がハンバーガー売り場という設定で、その斬新なアイデアに注目が集まったのです。以後、グラインドボーンやザルツブルクでも活躍。『ピンク・パンサー』でおなじみの同姓同名の喜劇俳優とは関係ありません。


【9月28日】『カルメン』の原作者は、歴史学者。

●1803年、フランスの作家・歴史学者でもあったメリメ(プロスペル・-1870)が、パリで生まれています。若くして数カ国後をマスターし、とくにフランスでのロシア文学の紹介者としても著名。『カルメン』以外にも『コロンバ』などの作品を残しています。第2帝政時代にはとくに厚遇され元老院議員となり、勲章も授与されています。(亡くなった日の9月23日の項参照)
●1865年、ポーランドの作曲家モニュシュコ(1819-72)『幽霊屋敷』が、ワルシャワで初演しています。彼の代表作『ハルカ』などのセリア風とは違い、ブッファ風の仕上げになっています。こうした笑いによって当時のポーランドの人々の民族的な意識が高まったと言われています。
●1961年、第3次イタリア歌劇団によってジョルダーノ(ウンベルト・1867-1948)『アンドレア・シェニエ』が、日本初演を果たしています。この第3次から開場したがばかりの東京文化会館で行われ、デル・モナコ(マリオ・1915-82)の題名役と、当時カラス(マリア・1923-77)と人気を2分した初来日のテバルディ(レナータ・1922-2004)との共演が話題に。私ごとながら、筆者もこの日に観劇しています。
●1963年、ポーランド出身のアメリカのソプラノ歌手ライザ(ローザ・1893-)が、ロサンゼルスで亡くなっています。スカラ座で、ボーイト(アッリゴ・1842-1918)『ネローネ』やプッチーニ(ジャーコモ・1858-1924)『トゥーランドット』のそれぞれの初演の主役を歌った歌手。ドラマティコという声質からアイーダも適役でした。


【9月29日】本格的イタリア・オペラの魅力を実感させた日。

●1863年、フランスの作曲家ビゼー(ジョルジュ・1838-75)『真珠採り』が、パリ・リリック座で初演(9月30日説もあり)。舞台は、未開時代のスリランカ。巫女と両氏との禁断の恋を描いた名曲。とくにナディールが歌うアリア「耳に残る君の歌声」は有名です。
●1920年、チェコの国民的な指揮者ノイマン(ヴァーツラフ・-1995)が、プラハで生まれています。当初は、チェコ・フィルとスメタナ弦楽四重奏団のヴィオラ奏者として活躍。その後ライプチヒ歌劇場やシュトゥットガルト国立歌劇場の音楽総監督、チェコ・フィルの首席指揮者などを歴任しました。(亡くなった日の9月2日の項参照)
●1930年、オーストラリアの指揮者ボニング(リチャード・)が、シドニーで生まれています。当初はピニストとしてデビューしましたが、ソプラノ歌手のサザーランド(ジョーン・1926-2010)と結婚してからオペラに関心を持ち、その後指揮者に転向。サザーランドとともに多くのオペラで共演しています。
●1956年、第1次イタリア歌劇団初日『アイーダ』が、東京宝塚劇場で上演されました。この日アイーダを歌ったのがステッラ(アントニエッタ・1929-)でしたが、指揮者のグイ(ヴィットーリオ・1885−1975)との口論で、この日だけで帰国してしまい、あとはダブル・キャストのルチアーナ・ベルトッリが歌ったという記録があります。アムネリスは、シミオナート(ジュリエッタ・1910-2010)でした。この日を嚆矢として、その顔ぶれといい、演目といい、1976年の第8次まで続いたNHK招聘のイタリア歌劇団公演が残した感動と興奮は、日本人のオペラ・ファンを一挙に増加させました。その功績は計り知れないと思うのですが、その割にはまとまった記録がないのは残念なことです。


【9月30日】名曲『魔笛』が初演された日。

●1791年、モーツァルト(ウォルフガング・アマデウス・1756−91)のジングシュピール『魔笛』が、シカネーダー(エマヌエル・1751-1812)の台本によってウィーンのアウフ・デア・ヴィーデン劇場で作曲者自身の指揮で初演。シカネーダー自身もこの時、パパゲーノ役で出演したと言います。ザラストロが行う儀式も含めモーツァルトとフリーメーソンとの関係が取り沙汰された作品でもあります。
●1935年、アメリカの作曲家ガーシュイン(ジョージ・1898-1937)『ポーギーとベス』が、ボストンのコロニアル劇場で初演されています。その前にもいつくかのアメリカ産のオペラもありましたが、実質的にはこの作品がアメリカ・オペラの最初の傑作と言えましょう。(形式的にはミュージカルの先駆けと見ることもできますが)
●1933年、オーストリアのオペレッタ作曲家シュトルツ(ローベルト・1880−1975)のオペレッタ『二人の心はワルツを奏で』が、チューリヒで初演。コンビを組んでいる二人のオペレッタ作家が繰り広げるロマンチック・コメディ。これが当時、ヨーロッパ中で大ヒットを飛ばしたのです。奇しくもこの年ドイツではヒトラーが首相に就任し、日本が国際連盟を脱退した年でもありました。

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)

CAPTCHA


COMMENT ON FACEBOOK

Return Top