北風の吹き付ける1月27日、すみだトリフォニーホールにて珍しいオペラが演奏された。その名も「ニホンザル・スキトオリメ」。聞きなじみのある方は余程のオペラ通といえるだろう。これは90歳を迎える作曲家・間宮芳生による作品だ。「間宮芳生90歳記念」ということで、1965年の初演以来、実に53年振りの再演となる。
「ニホンザル・スキトオリメ」は、「プロローグとエピローグを置く1幕8場」という構成だ。今回の再演に際し、間宮氏は新たに「間奏曲」を作曲し挿入した。詳しくは内容と合わせて後述しよう。
開演前には指揮を務める野平一郎氏によるプレトークがあった。配布されたプログラムには多数の間宮門下生からメッセージが寄せられていたが、他でもない野平氏自身も、間宮門下生で最も著名な音楽家の一人だ。曰く、全部で5作ある「間宮オペラ」で唯一聴いていないのが「ニホンザル・スキトオリメ」だったそうだ。間宮氏の口から語られる「スキトオリメ」の音楽像は、聴かずして間宮作品の中でも最高傑作であるという確信を持ち続けていたという。「その憧れの作品を演奏できる喜び」という言葉からも、この日の演奏は何か凄まじいものが生まれるのではないかという予感を覚えた。
原作は、作家の故・木島始だ。童話として書かれた「ニホンザル・スキトオリメ」のオペラ化に際し、木島始自身の手によって台本が書かれた。
物語は「男」と「くすの木」の対話のプロローグから始まる。巨木に刻まれた年輪=木目に触れた男は、そこから得体のしれない何かを感じ、木は男に「目をつぶって肌に触れれば、木目が古い記憶を語る」と告げ、男は目を閉じる。「イヌよりもサルの方が強かった時代」の、このクスノキの記憶が蘇る。
女王ザルが治めるとある森で、「女王の画コンテスト(註:プログラム記載の台本の表記に準拠。以下「絵」はすべて「画」で表記される)」が行われている。一等賞には褒美があるということで、側近であるオトモザルが絵を幾つも女王ザルに見せるが、全く気に召さない。女王の求めるものが分からないサルたちのなかで、スキトオリメだけは「美しさを失うのが怖いから、画で残したいのだ」といい、その画は女王ザルに認められ、一等賞を得たのだった。このコンテストの場面では、ケルト音楽の伝統楽器・バグパイプが度々用いられ、独特の世界観を生み出している。
コンテストの後、スキトオリメは世界をめぐる旅に出る。その旅の中で、「サルであってサルでない=人間」が現れたことを耳にした。このいきさつは木の独唱で語られる。リュートの伴奏で叙唱=レチタティーヴォのように歌われるこのスタイルは、紛うことなきバロックオペラの技法である。
旅から帰ったスキトオリメは、旅で知った人間のこと、そして人間よりも知恵があって永久に死なない「神様」のことを女王ザルに教える。すると女王ザルは自分を神様のように描くようスキトオリメに命じる。なかなか筆の進まないスキトオリメは、一晩の猶予を願い出て、第一部は幕となる。
休憩明けは、このコンサートのために書き下ろされた間奏曲で幕を開ける。「女王ざるの間奏曲」と題されたこの曲は、ゲーム音楽の王宮のBGMのような華やかな雰囲気から始まり、続いて女王ザルの心の闇か、あるいは悩んでいるスキトオリメの心情を思わせる悩ましくも美しい音楽で終わる。それまでの無調の世界とは打って変わって調性音楽であった。この曲を置いたことによって、オペラは2幕構成のようになり、スキトオリメが願い出た一晩の猶予の表現として実感を持てるものとなった。
第二部は木による情景描写から始まる。眠れないスキトオリメを表すような無調の音楽を背景に歌い上げる。夢にインスピレーションを得たスキトオリメは、朝になって一気に画を書き上げる。しかし女王ザルはこれを見るなりスキトオリメを投獄してしまう。その時、森に犬たちが攻めてくるという情報が舞い込んだ。スキトオリメの代わりに「何でもその通りに書いてしまう」というソノトオリメに女王ザルを描かせ、それを大量に複製してサルたちに配ったオトモザルは、「女王ザルはサルの神様となった。危ない時も拝めば死んでも死なない」と宣言するのだった。
投獄されたスキトオリメは、牢屋となったほらあな、つまり「くすの木」にぽっかりと開いた大穴の壁に爪で画を描き続けていた。爪が剥がれた後も、むき出しになった指の骨で描き続けた。描いていたのは、変わってしまったサルたちの姿、「サルたちの真実」であった。この場面も木の独唱で語られるが、背景音楽としてコーラスのおどろおどろしい音が書かれている。
そんな中、老いた女王ザルは遂に死んでしまった。女王ザルの望み通り、女王亡き後も、サルたちは「神様となった美しい女王ザルの画」を拝み続けている。そんなサルたちの森に、犬たちと人間たちは火を放った。逃げ場を失ったサルたちはスキトオリメが投獄されていたほらあなに逃げ込み、そして木々は燃え落ち、サルたちはほらあなの中で焼け死んだ。オルガンによる劇的な音楽で始まる焼き討ちの場面は、肌を焼き尽くされる木の痛みに至る。聴いている自分の肌までも焼かれているかのような錯覚に陥る、生々しく辛い木の記憶。回想はここで終わる。
エピローグはプロローグ同様、木と男の対話だ。ここにも、リュートやリコーダーなどのバロック楽器による音楽がつけられている。ただの木目であった表面から、男は様々なものを見た。木は男に語る。「スキトオリメの画の動きを、さあ、いつまでも、たどっていくがいい。」(プログラム掲載の台本より。)
通常、オーケストラには用いないバグパイプや、主にバロック音楽に用いられるリュートとリコーダー、さらにオペラでは滅多に使われないオルガンまで使用した大胆な作曲技法には確かに驚く。しかしそれ以上に音楽的に特筆すべきなのは、オーケストラが実に幅広い表現を担っていることだろう。話し手の心情のみならず、それを聞く人物の心情、あるいはそういったものから切り離されて場面描写を淡々と要求したりと、その神髄は現代音楽でありながらモーツァルトのオペラのようでもあり、得も言われぬ美しさはR.シュトラウスのようでもある。女王ザルの死の場面のなんと官能的なことか!独裁を貫き、死の間際まで生に執着した悲しき女王に、間宮はこれ以上ない甘美な音楽を与えたのだ。
くすの木役を歌った北川辰彦は圧巻だった。パイプオルガンにも負けない声量、全てを見てきた「木」の真に迫った表現は見事だった。
女王ザル役の田崎尚美も、良き女王であった女王ザルが変わっていく様子を、抜群の美声と共に表現しきった。
女王ザルの腹心・オトモザルはそのほとんどが台詞であったが、音楽と台詞の調和をやってのけた原田圭の言葉の技術はさすがの一言に尽きる。
物事の本質をとらえることできるスキトオリメは大槻孝志が堂々と歌い上げた。飄々としていながら、本質が見えすぎることによる苦悩する様子がよく伝わってきた。
ソノトオリメは出番こそ少ないが、山下浩司は抜群の存在感を示していた。
男役は俳優の根本泰彦が演じた。演技のない中での台詞役、さらに現代音楽の中での語りは決してやりやすいものではないと思われるが、歌手とは違う「プロの台詞の表現技術」を聴くことができた。
野平氏の指揮は非常に集中力のある演奏を引き出していた。何度かあったGP(ゲネラルパウゼ=全楽器が休止すること)では、客席の呼吸までも禁じられているかのような錯覚を覚えた。全ての瞬間に野平氏の間宮氏への愛を感じる音楽作りであって、「オーケストラ・ニッポニカ」の演奏も、そうした間宮氏と野平氏の世界をよく汲み取った緊張感ある演奏だった。
そして忘れてはならないのが合唱団の存在だ。この公演で最も存在感を示したのは、合唱団ではなかろうか。いわゆる「オペラの合唱」とは異なり、合唱の場面だけ抜き出しても「現代音楽の合唱作品」を名乗れそうなほどの難易度と様々な要素を兼ね備えた音楽を、完璧と呼べるほど凄まじい精度で演奏しきったのだ。準備にどれほどの努力と時間を要したのか。脱帽するばかりである。「ヴォーカル・コンソート東京」と「コール・ジューン」による混成だったそうだが、両合唱団に惜しみない賛辞を贈りたい。
「セミステージ形式」での上演だったが、個々の表現の範囲を超える演技はなく、衣装と照明のついた「演奏会形式」という印象だった。大編成のオーケストラと同じ舞台面では演技スペースが取れないのも無理はない。衣装を着ていたのも、誰がどの役かを判別しやすかった。照明も森を表すものだったり、迫りくる炎だったりと、演技がなくとも場面を堪能できる工夫がなされていた。そのおかげもあり、間宮氏の音楽の世界、木島始のメッセージにどっぷりと集中することができた。できることが限られている中、演出を担当した田尾下氏は最大限の効果をもたらすことに成功している。
カーテンコールでは作曲者の間宮氏が客席から舞台上に上がった。齢90歳ながら自分の足で出演者に挨拶して回るその姿には、ある種の感動さえ覚えた。
独裁と宗教化、戦争と殺戮、生と死、本質と表面、美しさと老い。サルの世界を借りてはいるが、間違いなく我々人類にとって普遍的なテーマだろう。未だオペラ後進国と言える日本において、半世紀以上前にこのような作品が作られていたことは非常に驚きであり、また幸運でもある。日本オペラ史に残るべき名作を、埋もれさせてはならない。日本のオペラ界に新たな可能性を見た一夜であった。
レポート・文:オペラエクスプレス編集部 / 写真:渋谷学
《間宮芳生90歳記念》
オペラ「ニホンザル・スキトオリメ」
2019年1月27日(日)16:00開演
すみだトリフォニーホール 大ホール
セミ・ステージ形式/日本語上演/字幕付き
間宮芳生:
女王ざるの間奏曲~オーケストラ・ニッポニカ委嘱作品(2018)
オペラ「ニホンザル・スキトオリメ」(1965)
台本: 木島 始
指揮: 野平 一郎
演出: 田尾下 哲
副指揮: 四野見 和敏
キャスト:
スキトオリメ (テノール) 大槻 孝志
女王ザル(ソプラノ) 田崎 尚美
オトモザル (バリトン) 原田 圭
ソノトオリメ (バリトン) 山下 浩司
くすの木 (バリトン) 北川 辰彦
男 (俳優) 根本 泰彦
合唱: ヴォーカル・コンソート東京/コール・ジューン
管弦楽: オーケストラ・ニッポニカ
制作:芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ
主催:芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ
後援:墨田区
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