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【インタビュー】アルベルト・ゼッダに聞く《ランスへの旅》復活上演秘話

【インタビュー】アルベルト・ゼッダに聞く《ランスへの旅》復活上演秘話

【インタビュー】アルベルト・ゼッダに聞く
《ランスへの旅》復活上演秘話

第53回大阪国際フェスティバル2015の開幕として、4月18日(土)にフェスティバルホールでロッシーニの《ランスヘの旅》が上演されます。《ランスヘの旅》はロッシーニの中でも他とは違った特殊なオペラということで、ロッシーニ研究の権威であり、今回の《ランスヘの旅》の指揮をするアルベルト・ゼッダ氏にこの作品について聞きました。(インタビューは昨年のゼッダ氏来日時におこなったものです)
インタビュー/テキスト:井内美香

 

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Q: 《ランスへの旅》の楽譜は長い間、失われていたということですが再発見にはどのような経緯があったのか教えていただけますか?

A: 《ランスへの旅》というオペラが存在している、ということは昔から分かっていました。今日ではロッシーニ研究が進み、彼の自筆譜はすべてカタログ化されています。アメリカ人の著名な音楽学者フィリップ・ゴセットはごく若い時に、アメリカで自分の研究に対する奨学金を得て、約3年間ヨーロッパを周りロッシーニの全ての自筆譜を調べてカタログ化しました。ほとんどの自筆譜は、大体どこに保管されているか分かっていましたが、唯一行方が分かっていなかったのが《ランスへの旅》でした。

少し歴史的な話をしますが、イタリアでは昔はオペラを書く契約をする時には、作曲家は自筆譜を興行主に渡さなければなりませんでした。ですから自筆譜は上演が終わると注文主の所有物となったのです。ロッシーニは若い頃から自分の楽譜を大事にしている作曲家でした。初期に書いた幾つかのオペラは、当時の慣習に従い相手に渡さなければならず、そのために初期の一幕ものオペラの自筆譜は失われて、5作品のうちの1つしか現存していません。《絹のはしご》だけが、それもかなり最近になって見つかっただけです。《セビリャの理髪師》と《ラ・チェネレントラ》の自筆譜は興行主が収集家に売って、その収集家が後にボローニャ音楽院に寄贈したので現在私たちはそれを目にすることができるのです。

ロッシーニは成功して自分の意志を通せるようになると自筆譜を手元に置くようになります。契約の形態を変えさせたのです。出版社はロッシーニの自筆譜を一年間手元に置く。その間に興行主は写譜をしてパート譜を作り、また権利を他の音楽出版社に売ったりしました。そして自筆譜はその後にロッシーニの元に戻るようになっていました。ですから彼の自筆譜の行方を探すのは割と容易だったのです。ロッシーニの自筆譜の大きなコレクションがペーザロに存在するのも、彼が没後自分の財産を多額のお金と一緒に生まれ故郷のペーザロに寄贈するように遺言したからでした。

《ランスへの旅》の自筆譜がないのは不思議でしたが、何かの理由で紛失したのだろう、ということになっていました。《ランスへの旅》の中の大きな部分がその後で書いた《オリー伯爵》に転用されたという事実は知られていました。当時の出版物にもそれは書かれていたからです。しかしそれ以外の部分がどこに行ってしまったのかは誰にもわからなかった。《ランスへの旅》はパリで実際に上演されたのに、不思議な事にロッシーニの自筆譜のみならず、劇場用の写譜、パート譜も何も見つかっていなかったのです。

ところが1970年代後半のある時、ゴセットがアメリカで出版されている世界の音楽図書館の蔵書が載っている専門カタログを読んでいたところ、《ランスへの旅》のロッシーニ自筆譜はローマのサンタ・チェチーリア音楽院の図書館にある、と記されているのを発見します。ローマは《セビリャの理髪師》や《ラ・チェネレントラ》が初演された、ロッシーニ研究には重要な都市ですからゴセットはそれまでももちろんローマには行っていたわけですが、この情報に驚いた彼は再びローマに赴きます。そして、「この本にこう出ています」と見せると、「少々お待ち下さい」という事で、何度かやり取りがあった後に調査が行われ、その結果、楽譜は存在していた事が判明します。こうして《ランスヘの旅》の中で《オリー伯爵》に転用されていなかった部分の自筆譜は発見されました。音楽院図書館の正式なカタログには記載が無かったのにも関わらず。カタログに無かったものがどうやってこの本に記載されたのか?一体どういうことだったのか未だに真相は解っていません。

いずれにせよ、こうして私たちは《ランスへの旅》の失われた部分の自筆譜を見出す事ができました。《オリー伯爵》に転用された部分の自筆譜は失われたままです。なぜならロッシーニがフランスで書いた作品は全て音楽出版社に自筆譜を渡さなくてはならなかったからです。《モゼとファラオ》《コリントスの包囲》《オリー伯爵》、これらフランス語の3作品はフランスの出版社から出版されたので自筆譜が残っていません。今日まで残っているのは《ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)》だけで、これはオペラ座から委嘱された作品だからです。

《オリー伯爵》は出版もされましたからきちっとした楽譜が存在しました。転用されなかった部分の自筆譜と、転用された部分の出版譜から《ランスへの旅》の全体を組み立てるのは難しい作業ではありませんでした。どの部分が《オリー伯爵》に転用されたかは分かっていましたから。台本と照らし合わせると転用された部分も台本にぴったりとはまりました。こうして再発見された部分と、《オリー伯爵》に転用された部分を組み合わせて、《ランスへの旅》は蘇ったのです。

当時ロッシーニはパリの王立イタリア劇場のディレクターになる大変良い条件の契約をフランス国王シャルル10世から受けたばかりでした。この劇場のために新作オペラを書くという条件も入った彼の契約の相手は正に王自身だったのです。ですから王の戴冠式を記念した作品を作曲しなさい、という依頼があったときにそれを断るはずはありませんでした。当時イタリア劇場の契約アーティストたちは大勢いましたから、普通のオペラは上演できなかった。普通のオペラは主要登場人物が4、5人、多くて6人位ですから。歌手達は皆が王様のための祝典オペラで歌いたがった。だからこの風変わりな台本が生まれたわけです。主役が多勢いて、それぞれに10分程の見せ場があるというような作品が必要だったのです。実際のストーリーよりもそのことが重要だった。台本を読めばわかります。戴冠式を見物に行きたかったけれども馬が見つからなくて…という話で、深い意味はまったくありません。でも、金持ち達が宿泊しているホテルで、様々な国からの客同士の出会いがあり、小さい愛が生まれたり、様々なシーンがあるこの作品は、それゆえにかえって面白い作品になっています。上流階級の、貴族たちの世界を覗くこともできる。イタリアの将軍の未亡人であるポーランド貴婦人、ロシアの将軍、英国の大佐がいたりと興味深い。アッパークラスの登場人物達は、王の宮廷の人々と同じクラスの人達で、特にその誰かを描写しているのではないとしても、ロッシーニは宮廷人達を粋で上品なやり方でからかっている部分があります。喜劇的な登場人物になっていますからね。王と貴族たちに観せる出し物として彼らをからかうような作品を書くなんて面白い捧げ物ですよね(笑)。

このオペラはそういう意味で変わった作品です。特にストーリーもなく登場人物が18人もいる。普通の状態だったらどんな劇場でもどんな興行主でもこのようなオペラを書かせることは決して無いでしょう。それにそれぞれが見せ場を持たなくてはならなかった。各自が歌う時間は短いのですが、技術的には非常に難しいアリアばかりです。名歌手の妙技を聴かせるための曲だったわけですから。当時のパリは世界最高の歌手が集まっていました。だからこのオペラは音楽的にとても高度で難しい曲が書かれているけれど、登場人物それぞれの歌う時間が短いのです。同じロッシーニの《マオメット2世》のように一人がトータル1時間も歌うような作品とは違います。《ランスへの旅》は一人が10分くらい歌うと退場します。

《ランスへの旅》の初演は大成功でした。音楽も素晴らしかったし、歌手たちの歌もきっと大層良かったのでしょう。しかしロッシーニは数回の上演の後、このオペラの再演の申し出を全て断りました。大変大きな成功の後でロッシーニが上演を禁じたので《ランスへの旅》はある種〈伝説のオペラ〉になります。なぜ上演を承諾しなかったのかは理由は明らかにされていません。おそらくは、オペラが捧げられた相手である国王へのリスペクトを欠く事が無いように、という理由だと思います。王への献呈品だったわけですから。もしくはオペラとして普通の上演に適した作品ではない、という見解もあったかもしれません。

《ランスヘの旅》の楽譜が発見されたのが1970年代後半です。ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバル(以下ROF)でこのオペラの蘇演をする計画が持ち上がりました。私はクラウディオ・アバドとは親しい友人でしたし、私が校訂版を出した《セビリャの理髪師》や《ラ・チェネレントラ》はアバドがスカラ座で指揮をして上演するなど深い繋がりがあったので、まず彼に「クラウディオ、君がペーザロに来てこのオペラを上演してくれよ。」と頼みました。ところが彼は「ペーザロではなあ…」となかなか承知してくれない。彼はすでにベルリン・フィルでも指揮し、神のように崇められていましたから。「僕が指揮するよ。でも僕がやるなら上演はスカラ座でないと。ペーザロの出来たばかりのフェスティバルでは無理だ。」と言うのです(注:ROFが創設されたのは1980年)。そこで私は、「君がやりたくないなら問題ないよ。僕はリッカルド・ムーティと友人だからこれは彼に頼む。彼はこのような重要な作品の再発見を世間に知らしめる機会を断ることはないだろうから。」と言いました。そうしたらアバドは、「いやいや、やっぱり僕がやるよ」って(笑)。でも最後の最後まで彼は抵抗していましたね。「パルマのファルネーゼ劇場の再オープンで上演したらどう?」とか。「いいや、これはペーザロでやるんだ。」って言い続けてやっとそれが実現したのです。そしてあのような素晴らしい指揮をしてくれたわけですが。我々も彼に最高のキャストを与えました。当時、ロッシーニを歌える名歌手を全て集めました。クベッリ、ライモンディ、アライサ… こうして我々にとって《ランスへの旅》はROFを世界に広めるために打ち上げられたロケットのような役目を果たしたのです。

《ランスへの旅》はその後、スカラ座でも上演されましたし、日本にもウィーン国立歌劇場が持って行くなど、アバドが各地で指揮をしました。 …でも世界各地で一渡り上演した後で、しばらく空白の期間が訪れます。特別な機会に上演するオペラだ、という先入観があったのです。この空白期があった後、《ランスへの旅》を再び上演するようになったのは私でした。それも若い人たちの公演としてです。例えば私が1998年に指揮したドイツのヴィルトバートの音楽祭。若い歌手たちが多く参加していたこの音楽祭は出演者が多い演目を上演するのに適していました。この公演はストラスブールでも再演されました。音楽祭同士が公演を交換する交流をおこなっていたからです。そしてパリでもやはり若い歌手たちの研修機関で上演しました。

そしてペーザロでもROFにアカデミーが誕生し、若い歌手達が上演するようになります。《ランスへの旅》は歌唱テクニックがないと歌えない難しいオペラです。それを言えば、ロッシーニのオペラは全て難しいのです。ロッシーニは初期のオペラから常に、声にとって難しいオペラを書いていました。《ラ・チェネレントラ》は彼のキャリアのまだ前半期の作品と言えますが、《マオメット2世》と同じくらいの難しさを持っています。でも《ランスへの旅》は《ラ・チェネレントラ》より難しいのに、なぜそれを若い歌手たちに歌わせるのか?それは、《ラ・チェネレントラ》を若い歌手たちのアカデミーで上演したら主役を歌えるのは四人だけです。しかも主人公は一時間半くらい歌い続けなければならない。その点《ランスへの旅》は、一人が歌うアリアはもっと難しい、でもその歌手が受け持つのはその一曲だけ。つまり責任を分散できるのですね。そして多くの歌手が舞台に上がる機会を持てる。ペーザロでは毎年この演出が上演されるので、音楽祭を訪れる観客たちは若い歌手達を毎年聴いて前年までの歌手と比べて楽しんでいます。そして《ランスへの旅》に出演している若い歌手の中から選りすぐりの人たちが翌年以降は音楽祭の本公演にも出演するので、観客にとってはそれも楽しみなのです。若い芸術家を育てていく喜びですね。

おかげさまでアカデミーを受ける若い歌手たちは増え続けて、今年は270名の応募がありました。270人の歌手から18名〜20名を選ぶのは大変なことです。すでにスカラ座で歌ったことがある歌手も混じっています。なぜならROFの《ランスへの旅》で歌うことは、その後のキャリアを築くのにもっとも早道だと知っているのです。

 

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Q: 1984年の《ランスヘの旅》蘇演はルカ・ロンコーニの演出も話題になりましたね。

1984年、ペーザロ・ロッシーニ・オペラ・フェスティバルで復活上演された《ランスへの旅》

1984年、ペーザロ・ロッシーニ・オペラ・フェスティバルで復活上演された《ランスへの旅》
提供:Rossini Opera Festival 写真:Studio Ambrosini di Roberto Angelotti

A: アバドの自宅にロンコーニと一緒に演出の説明に行ったんですよ。彼はロンコーニの演出プランを気に入らないみたいでした。テレビの撮影クルーを舞台に登場させたり、最後の場面で王様を劇場の外から入場させたりかなり奇抜な演出でしたから。でも私には天才的なアイディアに思えた。信じられないような演出だけれどそれがとてもロッシーニ的と言うか。アバドの説得には6時間もかかったんです。それにアバド自身も音楽面で変わったアイディアをいろいろ持っていて私たちを悩ませました。当時彼は夢中になっていたソプラノ歌手がいたんです。芸術的な意味でですよ(笑)。アメリカ人のすごく大きい、そう、偉大なるジェシー・ノーマンです。アバドはコリンナ役をジェシー・ノーマンに歌わせたいと言うんです。1982年のことでした。84年が初演でしたから。私は当時パリに住んでいたノーマンのところに楽譜を持って説明しに行きました。アバドは「彼女はどんな役でも歌えるはずだから」って主張するんです。残念ながら断られてしまいましたが。問題はノーマンに連絡をとったりしている間に1年くらいたってしまってコリンナ役がまだ決まらない事態に陥った事です。私はチェチーリア・ガスディアを見つけてきて、彼女にコルテーゼ夫人役を勉強させていました。コリンナ役はジェシー・ノーマンになるはずでしたから。そうしたら今度はアバドがカーチャ・リッチャレッリを連れてきた。彼女は当時スカラ座やレコード録音でアバドの指揮でたくさん歌っていたんです。リッチャレッリはロッシーニに特化した歌手ではありませんでしたが、最近で言えばマリエッラ・デヴィアのようにテクニックが非常にしっかりした歌手でしたから何でもよく歌えたわけです。でもリッチャレッリはコリンナというよりはコルテーゼ夫人のほうが性格もはっきり出せるし合っていたので、それならガスディアにコリンナを勉強させよう、ということになって彼女に、「コリンナを歌ってくれますか?」と聞いたら、ガスディアは頭がいいからコリンナがいちばん重要な主役だということにすぐ気がついて、こうして彼女がコリンナ役を歌うことになったわけです。

ロンコーニの演出についてはアバドは最後には納得し、その素晴らしさに心から納得していました。1984年当時このような演出は少なかったですから。ドイツではすでに変わった演出もあったけれどイタリアではこんなのは見たことがなかった。アバドは心配だったんでしょう。

1984年の《ランスへの旅》の後でオペラ界の人々は、「あの豪華なキャストが必要なオペラ」と言いました。誰があんな綺羅星のごとくの歌手たちのギャラを払えるか、って。でも私は若い歌手たちとこの演目を上演し始めましたし、今では皆さんも知っての通り《ランスヘの旅》は世界中の歌劇場で上演されています。

 

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Q: 大阪と東京で《ランスヘの旅》を指揮されます。抱負を教えて下さい。

大阪国際フェスティバル 「ランスへの旅」 紹介動画

大阪国際フェスティバル 「ランスへの旅」 紹介動画

A: 私にとって幸せなことに、ロッシーニの公演が成功を得るのは難しいことではありません。特に若い観客にとってロッシーニは魅力があるのです。若いと私が言うのは年齢のことではありません、精神のことです。まさにそれが私が日本の観客に対して持っている印象なのです。ですから公演は大きな成功を収めるだろうと期待しています。初めて指揮をする大阪のフェスティバルホールを見学してきましたが、立派で大変モダンなのに何か懐かしい雰囲気がある素敵なホールでした。東京は良く知っている藤原歌劇団の皆さんとの仕事ですし、大阪はまだ知らない歌手達との出会いで期待に胸を膨らませています。ペーザロのROFアカデミー出身の歌手達も連れて行きます。どうぞ楽しみにしていて下さい。

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