オペラ・エクスプレス

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年柄年中オペラ漬け。<オペラ暦>2016年4月—新井巌(あらいいわお)

オペラ暦4

【目次】

【4月1日】2人の巨匠ピアニストの誕生日と、ワーグナーの妻の命日。

●1866年、イタリア出身の作曲家・ピアニストのブゾーニ(フェルッチョ・ベンヴェヌート・-1924)が、フィレンツェ近郊ノエンボーリで生まれています。ブゾーニと言うと、伝説的なピアノの巨匠という印象が強いですが、『ファウスト博士』という長大なオペラも書いています。
●1872年、ロシアの作曲家・ピアニストのラフマニノフ(セルゲイ・-1943)が、ロシアのセミューノヴォで生まれています。こちらも、ブゾーニと同じく巨匠ピアニストのイメージが強いですが、彼のデビューは、チャイコフスキー推薦によって上演された1幕のオペラ『アレコ』ですし、他にも『フランチェスカ・ダ・リミニ』などは、しばしば欧米の歌劇場で取り上げられています。
●1913年、スペインの作曲家ファリャ(マヌエル・デ・-1876-1946)『はかなき人生』ニースのオペラ座で初演。2幕の1時間程度の短いオペラですが、1905年に作曲コンクールで優勝したにもかかわらず、やっと8年後のこの日、日の目を見たのです。
●1930年、ワーグナー(リヒャルト・1813−83)の妻であったコージマ(1837-)が、バイロイトで亡くなっています。彼女ほど起伏に満ちた生涯を送った女性も少ないでしょう。リスト(フランツ・1811-86)とダグー伯爵夫人(マリー・1805-76)との間に生まれた彼女は、最初ワーグナーの忠実な弟子であった指揮者のビューロー(ハンス・フォン・1830—94)と結婚し、その後ワーグナーとの不倫関係から離婚して妻となり、ワーグナーの没後はバイロイト音楽祭の継続と発展に大きな影響を及ぼしました。
●1937年、トスカニーニの勧めによって早くからアメリカで活躍したイタリアの出身のメノッティ(ジャン=カルロ・1911−2007)の第1作目のオペラ『アメリア、舞踏会へ行く』(1幕)が、フィラデルフィアのカーティス音楽院で初演されています。翌年METでも上演されました。


【4月2日】稀代の色事師カサノヴァとの関係は・・・

●1725年、イタリアの稀代の色事師であったカサノヴァ(ジャコモ・-1798)が、ヴェネツィアに生まれています。ドン・ジョヴァンニを地で行くほどの浮名を流し,ダ・ポンテ(ロレンツォ・1749-1838)が『ドン・ジョヴァンニ』を執筆した時も助言を与えたとも。モーツァルトとも親交があったのではないかと言われた人物です。
●1905年、オペラの古い録音に、しばしば登場する指揮者アドラー(クルト・ヘルベルト・-1988)が、ウィーンで生まれています。彼はウィーン・フォルクスオーパーなどヨーロッパ各地の歌劇場で活躍し、のちにアメリカに渡りシカゴ、サンフランシスコ歌劇場の音楽監督を務めています。

今日も話題が少ないので、そんな日はその近辺の話題を、もう少し詳しくご紹介する<隠れコラム>でお付き合いを。
(隠れコラム)
1897年4月2日、ブラームス危篤状態に。(そして翌日亡くなります)
そこで、なぜブラームスは、オペラを書かなかったか?について考えてみたいと思います。題して<ブラームスは、オペラがお嫌い?>
ブラームスは、オペラを一曲も書かなかった。あれほど、声楽をこよなく愛したブラームスがなぜ?尊敬していたベートーヴェンでさえ、1曲とはいえ『フィデリオ』という傑作オペラを残しているのに。
それにはいくつかの理由が考えられる。当時の音楽界は、ブラームス派とワーグナー派に分かれてさまざまな衝突があった。これは、本人同士よりも、その周囲や取り巻き連中の派閥対立であった。ブラームス自身は、ワーグナーが亡くなったという知らせを受けた時「巨匠は亡くなった。今日は何も歌うものがない」と言って、合唱団の練習を打ち切り哀悼の意を捧げたという。
ブラームスは、決してオペラにまったく関心がなかった訳ではなさそうだ。直接の原因は、数年かけて作曲したカンタータ『リナルド』(作品50)の初演が、惨めな結果に終わってしまったことにあったかもしれない。この題材は、ヘンデルが同名のオペラを書き、グルックがオペラ『アルミーダ』として作曲しているように、ブラームス自身もカンタータの形式をとっているとはいえ、十分にオペラ創作の糸口をつかもうとして書いたものだった。しかしこの初演の失敗は、慎重なブラームスをオペラの才能がないという殻にこもらせてしまったようだ。あれほど多くの声楽曲や合唱曲、あるいは『ドイツ・レクイエム』のような大作を書いたにもかかわらず、結局ブラームスは生涯に1曲もオペラを遺さないで旅立ってしまった。
翌日の朝、ブラームスはカールガッセの自宅で息を引き取った。敬愛してやまなかったクララ・シューマンが亡くなってから、まだ1年もたっていなかった。

【4月3日】『三文オペラ』の作曲者ヴァイル死す。

●1879年、メレッリ(バルトロメーオ・1794-)が、ミラノで亡くなっています。といってもあまり馴染みがない名前かもしれません。しかし、彼がいなければ19世紀前半のオペラがこれほど隆盛したかどうか。ミラノ・スカラ座やウィーンのケルントナートーア劇場の劇場支配人を務め、ヴェルディ(ジュゼッペ・1813−1901)を世に送り出し、またドニゼッティ(ガエターノ・1797−1848)らには台本提供もした多才な興行主でした。
●1950年、『三文オペラ』の作曲者ヴァイル(クルト・1900-)が、ニューヨークで亡くなっています。(詳しくは、この後の<隠れコラム>で!)

(隠れコラム)
『三文オペラ』のヒットから、映画音楽へ。
クルト・ヴァイルと言えば、ブレヒトの台本による『三文オペラ』が有名だ。もともとはヘンデルがロンドンで活躍している頃に、当時の流行歌などを取り入れたジョン・ゲイとクリストファー・ペープシュによる歌芝居『乞食オペラ』を翻案したもので、劇中で歌われる「メッキー・メッサーのモリタート」は、「マック・ザ・ナイフ」としてジャズやポップスとしても歌われ、人口に膾炙している。
ドイツのデッサウでユダヤ人の子として生まれたヴァイルは、12歳で作曲を始め、ベルリン音楽大学ではフンパーディンクに作曲を学んだ。地方の歌劇場で指揮者として修業を積み、20世紀音楽史の記念碑的な作品を次々と生み出していった。『三文オペラ』や『マハゴニー市の興亡』、バレエ曲『七つの大罪』などは、いまでもしばしば上演される。しかしながら、ナチスが政権を握るとユダヤ弾圧が強まったため、パリに亡命。その後演出家ラインハルト(マックス・1873-1943)の招きでアメリカに渡り、1943年以降はアメリカ国籍となる。
アメリカでは、ブロードウエイやハリウッドを本拠として、ミュージカルや映画の分野で活躍する。ジャズやモダンダンスの要素を積極的に取り入れた作曲手法は、その後、現代のミュージシャンたちにも大きな影響を与えた。
妻は『三文オペラ』にも出演した女優レーニャ(ロッテ・1898-1981)だが、一度離婚したが再び復縁して、彼の死後はヴァイル財団を組織して、彼の作品の普及に努めている。

【4月4日】フランスの名指揮者モントゥー誕生。

●1875年、フランスの指揮者モントゥー(ピエール・-1964)が、パリで生まれています。晩年の彼のいかにも好々爺然とした風貌にもかかわらず、若い時はディアギレフ(セルゲイ・1872-1929)のバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の指揮者として、ストラヴィンスキーの『ペトルーシュカ』『春の祭典』、ラヴェル『ダフニスとクロエ』など名だたる20世紀を代表する名曲を初演。アメリカに渡ってからは、メトロポリタン歌劇場で『金鶏』のアメリカ初演を果たし、また多くのフランス・オペラを指揮、さらにボストン交響楽団の音楽監督も長く勤めました。
●1847年、スペインの代表的なオペラ劇場であるバルセロナのリセウ劇場が、この日開場しています。ルネサンス様式による当時としては、世界最大級の歌劇場でした。19世紀中頃に火災で焼失し、また20世紀後半にも焼失するという悲運にも見舞われましたが、ロス=アンヘレス、カバリエ、カレーラス、ドミンゴといったスペインの代表的な歌手は、すべてこの劇場から育っています。
●1843年、現代ではやや忘れられた感のある指揮者リヒター(ハンス・-1916)が、ラープ(現ハンガリー領ジュール)で生まれています。ワーグナー(リヒャルト・1813−83)の多くのオペラを指揮し、中でも1876年『ニーベンルグの指環』全曲を初演。のちにイギリスに渡り、コヴェント・ガーデンで多くのドイツ・オペラを指揮しています。


【4月5日】大不況下での『こうもり』初演と、帝王カラヤン誕生。

●この日のハイライトは、1874年、シュトラウス2世(ヨハン・1825-99)『こうもり』が、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で初演されたことしょう。この前年には、ウィーンで株が大暴落。いわば、大不況下での上演でしたが、そんな状況だからこその大ヒット。彼は、この作品をわずか44日間で書き上げたといいます。
●1908年、オーストリアの大指揮者カラヤン(ヘルベルト・フォン・-1989)が、ザルツブルクで生まれています。彼に対する評価はさまざまですが、20世紀を代表する指揮者の一人であることには異論がないでしょう。かつてはベルリン・フィル、ウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座などを一手に率い、欧米楽壇を牛耳っていたことも事実でした。日本にも度々来日し多くのファンを魅了しました。
●1869年、フランスの作曲家ルーセル(アルベール・-1937)が、トゥルコアンで生まれています。年代的にはドビュッシー(クロード・1862-1918)やラヴェル(モーリス・1875-1937)とほぼ同世代で、その後の近代フランス音楽を継承した人。どちらかといえば、オペラよりもバレエ曲『蜘蛛の饗宴』(交響的断章)などが有名ですが、オペラには『カロリーヌ伯母さんの遺言状』などがあります。
●1877年、フランスの作曲家グノー(シャルル・1818—93)『サン=マール(5人の軍神)』が、パリのオペラ・コミーク座で初演。彼の作品の中では、晩年の作であまり成功しなかったようです。


【4月6日】ストラヴィンスキー、ヴェネツィアに眠る。

●1813年、イタリア出身の作曲家ケルビーニ(ルイジ・1760−1842)『アベンチェラージ部族(またはグラナダの軍旗)』が、パリ・オペラ座で初演されています。ケルビーニは、昨今、再注目されてきた作曲家で、とくに指揮者ムーティ(リッカルド・1941-)が力を注いでいるようです。これはアルハンブラ宮殿を舞台にした3幕のオペラで、永竹由幸氏は「オペラ名曲百科・上」の中で、その厳格な古典的な手法は「アングルの絵画を思わせる」と記しています。
●1971年、20世紀最大の作曲家の一人ストラヴィンスキー(イゴール・1882−)が、ニューヨークで亡くなっています。彼はディアギレフ(セルゲイ・1872-1929)が率いるバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)のために作曲した『春の祭典』『火の鳥』などの革新的なバレエ曲の数々で一躍名をあげたのです。オペラ作家としては、『道楽者のなりゆき』『エディプス王』などが、今日数多く上演されています。ニューヨークで亡くなったのですが、遺言により遺体はヴェネツィアに移され、墓地の島サン・ミケーレ島にディアギレフと隣り合わせに眠っています。


【4月7日】『夕鶴』の作曲者・團伊玖磨、誕生。

●1828年、早世した天才オペラ作曲家ベッリーニ(ヴィチェンツオ・1801—35)の『ビアンカとフェルナンド』(2幕)が、ジェノヴァのカルロ・フェリーチェ劇場で初演されています。実は、この劇場のこけら落としに新作を依頼されたにもかかわらず、間に合わなかったため前作の『ビアンカとジェルナンド』を改作して初演に至ったとか。
●1924年、日本を代表する作曲家の一人である團伊玖磨(—2001)が、東京で生まれています。團は、黛敏郎(1929-97)、芥川也寸志(1925-89)とともに「三人の会」を結成し、戦後の音楽界に新風を吹き込んだ一人です。とくにオペラでは、現在も世界的に上演されている『夕鶴』(1952)を皮切りに、『聴耳頭巾』(1955)、『ひかりごけ』(1972)、そして1997年10月に開場した新国立劇場の開場記念公演のために書かれた『建・TAKERU』(1997)まで、7作品が上演されています。
●1794年、ロッシーニをはじめベッリーニ、ドニゼッティなどの主役を演じたテノール歌手ルビーニ(ジョヴァンニ・バッティスタ・-1854)が、ベルガモ近郊のロマーノで生まれています。19世紀前半を代表する名歌手として、『海賊』『夢遊病の女』『清教徒』『アンナ・ボレーナ』などの初演で主役を務めました。
●1965年、ドイツの代表的な現代作曲家ヘンツェ(ハンス・ヴェルナー・1926−2012)の『若い貴族』が、ベルリン・ドイツ・オペラで初演されています。スノビズムを伝統的なオペラ・ブッファ風に仕上げて風刺したオペラ。


【4月8日】歌手たちの生没日が、目立ちます。

●ポンキエッリ(アミルカーレ・1834−1906)というと、すぐに「時の踊り」を思い出すでしょう。それがバレエ曲として挿入されているオペラが『ラ・ジョコンダ』。1876年、ミラノのスカラ座で初演されています。ヴェネツィアを舞台にジョコンダという歌姫をめぐる物語。原作は、ユゴー(ヴィクトール・1802-85)の『パドヴァの暴君アンジェロ』で、台本はトビア・ゴーリオという変名でボーイト(アッリゴ・1842-1918)が書いています。
●この日は、生誕日と命日が多い日です。生誕日からご紹介すると、まずオーストリアの指揮者クリップス(ヨーゼフ・-1974)が、1902年ウィーンで生誕。ウィーン国立歌劇場音楽監督などを歴任した名指揮者でした。
●つづいて、1921年、声よし、姿よしの名テノール、コレッリ(フランコ・-2003)が、アンコーナで生まれています。カラフやマンリーコを得意にしていました。彼の歌う「恐ろしい炎」は圧巻でした。
●さらに1929年、日本にも馴染みの深いウィーン宮廷歌手の称号を持つバリトン、ベリー(ヴァルター・-2000)が、ウィーンで生まれています。彼のフィガロ、レポレッロ、パパゲーノなどの名演技が忘れられません。
●命日としては、1848年、ドニゼッティ(ガエターノ・1797−)が郷里のベルガモで亡くなっています。ベル・カント・オペラの最盛期に活躍し、生涯で上演されたオペラだけでも67作にのぼるとも言われていますが、晩年は精神を病み、病み衰えた体で故郷のベルガモに帰って亡くなったのです。
●そして1993年、黒人としてはじめてMETの舞台に立ったアルト歌手アンダーソン(マリアン・1902-)が、ポートランドで亡くなっています。


【4月9日】ボードレールの評論で、パリのワーグナー熱に火がついた。

●1857年、フランスの作曲家ビゼー(ジョルジュ・1838-75)『ミラクル博士』が、パリのブーフ・パリジャン劇場で初演されています。ほとんどの方が馴染みのない作品だと思いますが、彼が学生時代にオッフェンバック(ジャック・1819-80)が主催したオペレッタ・コンクールで優勝したもの。同じ台本に78人の人が応募したと言います。
●1821年、フランスの象徴派の詩人ボードレール(シャルル・-1867)が、パリで生まれています。彼は詩集『悪の華』などで有名ですが、ワーグナー(リヒャルト・1813−83)の『タンホイザー』パリ初演を見て、すぐさま「ワーグナーとパリにおける『タンホイザー』」という評論を書き、その後のフランスにおけるワーグナー・ブームの嚆矢となりました。
●1898年、ウィーンの良き雰囲気を持ったテノール歌手パツァーク(ユーリウス・-1974)が、ウィーンで生まれています。ドイツ・オペラの主要テノールとして活躍。1959年には、ウィーン国立オペラの一員として来日しています。
●1906年、ハンガリー出身の指揮者ドラティ(アンタール・-1988)が、ブダペストで生まれています。ヨーロッパ各地の歌劇場で活躍し、戦後はアメリカでデトロイト交響楽団の音楽監督などを務めていました。切れ味の良い現代感覚あふれる指揮ぶりが人気でした。


【4月10日】イタオペの黄金期を支えた巨匠デ・サバータ。

●1840年、イタリアの作曲家ドニゼッティ(ガエターノ・1797−1848)の『殉教者』が、パリのオペラ座で初演されています。もともとは、コルネイユの悲劇をカンマラーノが台本を書いた『ポリウート』でしたが、検閲に引っかかり上演不能となり、フランス語に翻訳してこの題名で上演されたのです。のちに『ポリウート』として、1848年、ナポリで原語初演されています。
●1892年、戦中から戦後にかけてのイタリア・オペラ黄金期を支えた指揮者デ・サーバタ(ヴィクトル・−1967)が、トリエステで生まれています。ラヴェルの『子供と魔法』を初演。スカラ座では、53年に芸術総監督に就任しています。バイロイト音楽祭で『トリスタンとイゾルデ』も指揮。
●1979年、フェデリコ・フェリーニ監督に出会ったことから、日本では映画音楽の作曲家としての方が有名なロータ(ニーノ・1911-)が、ローマで亡くなっています。彼自身は「本業はクラシック作曲家」として、映画音楽はあくまでも趣味だったとか。オペラ作品として『フィレンツェの麦わら帽子』『アラジンと魔法のランプ』などがあります。


【4月11日】南米の巨匠ヒナステラ誕生。

●1916年、南米の代表的作曲家ではフラジルのヴィラ=ロボス(エイトル・1887-1959)に次ぐ、アルゼンチンのヒナステラ(アルベルト・-1983)が、ブエノス・アイレスで生まれています。残念ながら、彼のオペラ『ドン・ロドリーゴ』『ボーマルソ』などは、日本ではほとんど馴染みがありません。
●1938年、ドイツのバス歌手モル(クルト・)が、ケルン近郊のブイアで生まれています。マルケ王やオックス男爵などを持ち役として、カラヤンなどからも信頼を寄せられていました。今日で78歳です。

<隠れコラム>
ヨーロッパのオペラのオフには、南半球へ。
ヨーロッパのオペラ・シーズンといえば、秋から翌年の夏前の6月ごろまでというのが一般的だ。当然、ヨーロッパの夏はオペラ関係者にとっては、オフの季節となる。そのため、地球に反対側である南米に出稼ぎに行くというのが歌手や指揮者たちの、かつての夏の過ごし方だった。劇場だって、ブエノス・アイレスのコロン劇場をはじめ、リオ・デ・ジャネイロの市立劇場、チリのサンチャゴ市立劇場など、ヨーロッパに負けない規模の立派なオペラハウスがある。コロン劇場の歴史は古く、シャリアピンやカルーソーなどの名歌手も出演し、トスカニーニも2年間音楽監督を務めたことがある。このトスカニーニもまた、若き日にオペラ団の一員としてブラジルに演奏旅行に来て、本来振るはずだった指揮者が無能で、その代役として急遽『アイーダ』を暗譜で振って、劇的な指揮者デビューを果たしたエピソードはあまりにも有名だ。
昨今では、本来ならオフ・シーズンだったヨーロッパの夏も、アレーナ・ディ・ヴェローナをはじめ、ザルツブルク音楽祭、バイロイト音楽祭など、さまざまな夏の観光客を狙ったようなオペラ公演が目白押しだから、そうした南米への出稼ぎ出演はしなくなったものの、それだけスケジュールがハードになり、歌手はもちろん指揮者も、かつてのような伝説的な名演や衝撃的なデビューなどは生まれにくくなってしまった。日本ではあまりヒットしなかったが、82年のカンヌ映画祭でグランプリを取ったベルナー・ヘルツォーク監督の『フィッツカラルド』という映画は、ペルーに密林マナウスに壮大なオペラハウス建設を夢みる男の話だった。南米出身の歌手としては、ファン・ディエゴ・フローレスをはじめ、マルセロ・アルバレスなど世界中で活躍しているが、残念ながらオペラ作曲家となると名が通った人はヒナステラぐらいで、他は寡聞にして知らない。

【4月12日】“世紀のバス”シャリアピン、死去。

●1867年、オフェンバック(ジャック・1819-80)のオペレッタ『ジェロルスタイン女大公殿下』が、パリのヴァリエテ劇場で初演。日本でも浅草オペラ時代は『ブン大将』として親しまれていました。大公妃殿下という訳もありますが、この場合は、女性の大公という意味で大公妃ではないようです。
●1826年、ドイツ国民歌劇の創始者でもあるヴェーバー(カルル・マリーア・フォン・1786-1826)が、イギリスに招かれ、英語による『オベロン、妖精の王』がロンドンのコヴェント・ガーデンで作曲者自身の指揮により初演されました。この作品を上演した後にロンドンで客死しますが、その後ワーグナー(リヒャルト・1813−83)の尽力で遺骸はドレスデンに改葬されています。
●1930年、チェコの作曲家ヤナーチェク(レオシュ・1854−1928)の『死の家より』をブルーノ国民劇場で初演しています。ドストエフスキーの『死の家の記録』を3幕のオペラにしたものです。
●1933年、スペインの名ソプラノ、カバリエ(モンセラート・1933-)がバルセロナで生まれています。とくにベル・カント・オペラで彼女の真骨頂を発揮します。
●1938年、“世紀のテノール”が、カルーソーなら、“世紀のバス”といえば、シャリアピン(フェードル・1873—)でしょう。その彼がパリで亡くなっています。ボリス・ゴドゥノフも圧巻でしたが、「蚤の歌」などの小品にも味がありました。
●オペラというと、どうしても音楽が中心に語られることが多いですが、最近はやっと台本へも目が向けられるようになりました。その結果、劇詩人として数多くの作曲家に題材を提供したメタスタージオ(ピエトロ・1698−)の名も再評価されています。ウィーン宮廷詩人として君臨した彼は、1782年、同地で没しています。


【4月13日】“実在”のボリス・ゴドゥノフの命日。

●1966年のこの日、ユーゴ出身のソプラノで、アメリカで活躍したミラノフ(ジンカ・1906−89)は、彼女のフランチャイズであったMETでの最後の公演にジョルダーノ『アンドレア・シェニエ』のマッダレーナ役を選び、これで引退したのです。
●1605年、プーシキンの史劇を基にオペラ化したムソルグスキーの傑作『ボリス・ゴドゥノフ』の主人公であった、実在のゴドゥノフ(ボリス・1552-)が、亡くなったのがユリウス暦でのこの日でした。
オペラではありませんが、1742年、ヘンデル(ジョージ・フレデリック・1685−1759)の代表作である3部からなるオラトリオ『メサイア』が、この日ダブリンで初演されています。


【4月14日】バロックオペラの巨匠ヘンデル、ロンドンで没。

●1759年、バロックの巨匠としてバッハとともに挙げられる大作曲家ヘンデル(ジョージ・フレデリック・1685−)が、ロンドンで亡くなったのがこの日。ドイツ生まれながら、半生をイギリスで過ごし多くのオペラを残しています。彼のオペラは主としてナポリ派のオペラ・セリアが中心でした。
●1806年、イタリアの劇作家ゴッツィ(カルロ・1720−)が、ヴェネツィアで亡くなっています。『トゥーランドット』や『三つのオレンジへの恋』などの原作者として知られています。
●1883年、フランスの作曲家ドリーブ(レオ・1836-91)『ラクメ』が、パリ、オペラ・コミック座で初演されています。ドリーブと言えばバレエ音楽を連想しがちですが、この『ラクメ』の「鐘の歌」は、超絶技巧コロラトゥーラのアリアとしてとくに有名です。この原作は、鹿鳴館時代の日本を描いた「お菊さん」の作者ピエール・ロティ(1850−1923)の「ロティの結婚」が基となり、彼自身の海軍演習での南方駐在での体験を小説化したものというのは意外に知られていません。
●1913年、日本にも度々訪れているフランスの名指揮者フルネ(ジャン・-2008)が、ルーアンで生まれています。1958年の初来日ではドビュッシーの『ペレアスとメリザント』で日本初演を果たし、引退公演は、2005年の東京都交響楽団の定期演奏会でした。
●「銭形平次捕物控」で有名な時代小説家・野村胡堂のもう一つの顔が、野村あらえびす(1882-)という筆名(本名:野村長一)の音楽評論家としての顔でした。戦前は、彼の音楽評論でSPを聴いた方も多いはず。1963年、この日に亡くなっています。
●2013年、コヴェント・ガーデンで活躍したイギリスの名指揮者ディヴィス(コリン・1927-)が、ロンドンで亡くなっています。享年85歳でした。イギリスの指揮者として初めてバイロイトで『タンホイザー』を指揮しています。


【4月15日】洋酒のCMで火がついた『オンブラ・マイ・フ』

●昨日が、ヘンデル(ジョージ・フレデリック・1685−1759)の257年目の命日でしたが、1737年、彼の唯一ともいえるコミカルなオペラ『セルセ(クセルクセス)』が、ロンドンのヘイマーケット国王劇場で初演されています。第1幕で、かつては「ラールゴ」の名で知られ、今は「オンブラ・マイ・フ」として有名なセルセの歌うアリア「優しい緑の木陰」がとくに有名です。

<隠れコラム>ヘンデル
オペラ作曲家“英国人”ヘンデル
1685年は、音楽史にとって偉大かつ特別な年号である。今更言うまでもないが、古典派の巨匠の“二枚看板”であるゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(2月23日、ハレ生まれ)と、ヨハン・セバスチャン・バッハ(3月31日、アイゼナッハ生まれ)の二人が、この年に生まれた。ただ、現代の人気の上では演奏回数でもCDの録音数でも、圧倒的にバッハが上回っていた。それでも昨今、数ではまだまだ及ばないものの上演も録音も徐々に増えつつある。ヘンデル復活を感じさせる状況になってきた。
同い年とはいえ、この二人は正反対の生涯を過ごした。バッハが生涯をドイツ国内で過ごしたのとは反対に、ヘンデルは早くからヨーロッパ各地を巡った。ハンブルクで修業を積むと、約3年の間にフィレンツェ、ローマ、ナポリ、そしてヴェネツィアと巡った。とくにヴェネツィアでは彼の6作目となる『アグリッピーナ』(1709)が大当たりしたことから、大いに自信を深めて一旦ハノーヴァーに帰国して宮廷楽長の地位に就くも、その契約の中に1年間のロンドン滞在が認められていた。早速その特典を利用して、ロンドンに赴いたヘンデルは、ちょうどイタリア・オペラの市場開放に踏み切った同地で、カストラート歌手ニコリーニを伴ってのロンドン第1作『リナルド』(1711)を成功に導き、引き続き『テーゼオ』(1712)、さらにその後のロンドンで活躍した。1727年に正式にイギリスへ帰化したので、それ以降は英国人ヘンデルとなり、呼び方も、ジョージ・フレデリック・ハンデル(またはヘンドル)となったのである。(この欄では、いささか強引ながら、さすがジョージ・フレデリックとまでは書けても、ヘンデルをハンデルとは書けないので、ジョージ・フレデリック・ヘンデルとしている。)前半期はオペラ制作で数多くのヒットを飛ばし、じつにロンドンで作曲したオペラは37曲にも及んだ。彼のオペラ人気に陰りが見えてきた後半期になると、今度は方向を変換してオラトリオ作曲家として『メサイア』(1743)、『ユダス・マカベウス』(1747)などで、その地位を不動のものとした。
昨今、ヘンデルのオペラもかなり復活してきて、さまざまな演奏家がヘンデルのオペラを取り上げている。中でも『ジューリオ・チェーザレ(ジュリアス・シーザー)』(1724)や、『アルチーナ』(1735)、『タメルラーノ』(1724)、『ロデリンダ』(1725)、『アドメート』(1727)、『セルセ』(1738)、『ヘラクルス』(1745)などが今日でもDVDやCDで紹介されている。

【4月16日】今日は、レオ・ヌッチ様のお誕生日。

●1735年、ヘンデル(ジョージ・フレデリック・1685−1759)『アルチーナ』が、ロンドンのコヴェント・ガーデンで初演。幻想的な雰囲気を持つ美しい曲で、アリアでは「緑の牧場」が有名。
●1844年、近代フランスの作家・詩人のフランス(アナトール・-1924)が、パリで生まれています。オペラとの接点は、マスネの『タイス』の原作者だったこと。
●1849年、グラン・トペラ(グランド・オペラ)の代表的作曲家だったマイアベーア(ジャコモ・1791-1864)の『予言者』が、パリのオペラ座で初演。
●1898年、METで一時代を築いた名ソプラノのポンス(リリー・-1976)が、カンヌ近郊で誕生しています。METでは『ルチア』を歌って大成功、のちに指揮者コストラネッツ(アンドレ・1901-80)と結婚し、アメリカ国籍となりました。
●1942年、現代屈指の名バリトン、ヌッチ(レオ・)が、ボローニャ近郊で生まれています。70歳を過ぎてもバリバリの現役で、今も世界中の歌劇場から引っ張りだこ。
●1973年、ハンガリーを代表する名指揮者ケルテス(イシュトヴァーン・1929-)が、テル・アビブ近郊の海岸で遊泳中に高波にさらわれ溺死するという悲劇を生みました。これからという43歳の若さでした。


【4月17日】一世代前の名歌手の誕生日。

●1940年、ドイツの名ソプラノ、シリヤ(アニア・)が、ベルリンで生まれています。彼女は神童と呼ばれるほど少女時代から頭角を表し、10代には主要なオペラのヒロインを演じていました。大ワーグナー孫の演出家ワーグナー(ヴィーランド・1917−66)の寵愛を受け、彼が演出したバイロイト音楽祭では多くのヒロインを演じ、ヴィーランドが急死すると、のちに指揮者クリュイタンス(アンドレ・1905-1967)との恋愛、そして同じく指揮者のドホナーニ(クリストフ・フォン・1929-)とも結婚しています。70歳を過ぎた年齢になっても、未だ舞台に立ち、演出など旺盛な創作意欲を見せています。
●1923年、イタリアの名テノール歌手ライモンディ(ジャンニ・-2008)が、ボローニャで生まれています。ボローニャ生まれのライモンディといえば、昨今はすぐにバス=バリトンのルッジェーロ(1940−)と思いがちですが、こちらは戦後のイタリアのテノーレ・リリコとして鳴らしたジャンニの方。戦後のスカラ座での主役を務めた回数も200回を超え、50年代から70年代にかけてのイタリアの代表的テノールの一人でした。


【4月18日】なかなか上演されないスッペのオペレッタ。

●1819年、数多くのオペレッタを作曲したスッペ(フランツ・フォン・-1895)が、スプリト(ユーゴ)で生まれています。『詩人と農夫』『軽騎兵』などの序曲は、
小・中学校の音楽の時間でもよく聴いたものでした。
1936年、イタリアの作曲家レスピーギ(オットリーノ・1879-)が、ローマで亡くなっています。レスピーギと言えば『ローマ三部作』で有名ですが、オペラも未完成のものも含め9曲も書いています。

<隠れコラム>
彷徨の詩人バイロン卿と音楽
かつて明治の歌人与謝野鉄幹が、「バイロン、ハイネの熱なきも・・・」(人を恋うる歌)と歌ったほど、イギリスのロマン派の詩人ジョージ・ゴードン・バイロン卿は、日本の近代文学の創成期に影響をもたらした。男爵でもあった彼は、スキャンダラスな噂によってイギリスの上流社会から疎外され、そのために母国を離れざるを得なくなり、1816年4月、長い流浪の旅に出る。28歳の時である。
イギリスを出ると、ベルギー、ドイツ、スイスを経てイタリアに入り、11月にヴェネツィアに到着した。そして1819年6月にラヴェンナに向かうまでの2年7ヶ月をこの地で過ごすことになる。そして、この詩人のもっとも充実した時期が、このヴェネツィア滞在の2年半であった。ここで彼は共和国崩壊後の頽廃したヴェネツィアの香りを「滅びの美」として賛美し、哀惜したのであった。
彼がヴェネツィアに滞在した前後の創作活動は、ほぼ彼の代表作を網羅しているほど充実したものだった。『コリントの包囲』(1816)、『シヨンの囚人』(1816)、『マンフレッド』(1817)、『ベッポ』(1818)、そして『チャイルド・ハロルドの巡礼第四歌』(1818)などである。また『ドン・ジュアン』(1819〜)もこの時期から書き始めている。
ヴェネツィアを離れた後も、同地を題材とした『マリーノ・ファリエーロ』(1821)、『二人のフォスカリ』(1821)の2本の戯曲を発表している。前者はドニゼッティ、後者はヴェルディによっていずれもオペラ化された。
さらに、バイロンを一躍有名にした長編詩が『チャイルド・ハロルドの巡礼』(1812-18)であったが、中でもイタリアを歌い上げた「第四歌」は、後の芸術家たちに圧巻の影響力をもたらした。美術においては、イギリスの画家J.M.W.ターナー(1775-1851)が1819年にヴェネツィアを訪れて描いた『チャイルド・ハロルドの巡礼—イタリア』(1832)があり、また音楽ではベルリオーズの管弦楽曲『イタリアのハロルド』(1834)が、何よりそれを物語っている。
この他にも彼の原作で、ドニゼッティが歌劇『パリジーナ』(1833)を、ヴェルディも歌劇『海賊』(1848)を、アダンはバレエ『海賊』(1856)を作曲し、シューマンもまた劇音楽『マンフレッド』(1848〜9)を、同じ題材でチャイコフスキーが交響曲『マンフレッド』(1855)を作曲するなど、バイロンの作品をオペラや楽曲にした例は枚挙にいとまがない。

【4月19日】イギリスの詩人バイロンは、オペラ原作の宝庫。

●1774年、グルック(クリストフ・ヴィリバルト・1714-87)『アウリスのイフィゲーニェ(オーリドのイフィジェニ)』が、パリのオペラ座で初演。エウリピデスのギリシャ悲劇をラシーヌが戯曲化したものに作曲。後にワーグナーによってドイツ語版に改訂されています。
●1824年、イギリスのロマン派の詩人バイロン(ジョージ・ゴードン・1788−)が、ギリシャのメソロンギオンで死去。ギリシャ独立戦争に身を投じ、同地で熱病のためにわずか36歳で亡くなったのです。日本でも明治以降もっとも人気のあった詩人のひとりでした。ヴェルディの『二人のフォスカリ』『海賊』、ドニゼッティの『マリーノ・ファリエーロ』の原作者でもありました。
●1877年、フランスの作曲家プランケット(ロベール・1860-1942)『コルヌヴィユの鐘』が、パリのフォリー・ドラマティーク劇場で初演。浅草オペラでも人気のあったオペレッタです。
●1908年、N響の常任指揮者も務めたドイツの名指揮者カイルベルト(ヨーゼフ・-1968)が、カルルスルーエで生まれています。バイエルン国立歌劇場の音楽監督などを務め、ドイツ・オペラの解釈には定評がありました。『トリスタンとイゾルデ』の指揮中に亡くなっています。


【4月20日】意外に多い指揮中の急死。

●2001年、当初は現代作曲家・指揮者として注目されたシノーポリ(ジュゼッペ・1946-)が、ベルリン・ドイツ・オペラ『アイーダ』を指揮中に死去したのが、この日。オペラ指揮者としてヴェネツィアで衝撃的なデビューを飾ったのも、この『アイーダ』でした。彼の作曲したオペラには『ルー・ザロメ』があります。前日のカイルベルトといい、指揮中に亡くなる人は意外に多いのですね。
●1943年、モンテヴェルディ合唱団・管弦楽団を組織した古楽の権威ガーディナー(ジョン・エリオット・-2014)が、イギリスのフォントメル・マグナで生まれています。のちに古楽だけでなく、『魔笛』をコヴェント・ガーデンでオペラ指揮者としてデビューした後は、数多くのオペラも指揮していました。


【4月21日】フランス文壇の大御所ラシーヌ、亡くなる。

●1699年、フランスの詩人・劇作家ラシーヌ(ジャン・バティスト・1639-)が、パリで亡くなっています。いうまでもなくコルネイユ(ピエール・1606−84)とともにフランス古典劇の大御所。彼自身が意識したわけではないにせよ、後年、モーツァルト、ロッシーニ、グルックなどが、彼の戯曲をオペラ化しています
●1783年、プラハのティル劇場が開場しています。プラハで最初に独立した石造りの劇場は、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』が初演された劇場としても有名。開場当初は、創立者の名で呼ばれ、のちに同国の代表的な演劇人ティルの名がつけられましたが、現在ではスタヴォフスケー劇場という名に戻っています。
●1801年、現在のトリエステ・ヴェルディ劇場が開場したのが、この日。当時は、ヌォーヴォ劇場と呼ばれていました。ヴェルディ(ジュゼッペ・1813−1901)の『スティッフェリオ』『海賊』などが初演されて、のちにヴェルディの名を冠するようになりました。
●1836年、イタリアの楽譜出版者ソンゾーニョ(エドアルド・−1920)が、ミラノで生まれています。1幕オペラ・コンクールで、マスカーニ(ピエトロ・1863−1945やレオンカヴァッロ(ルッジェーロ・1857-1919)を世に出したことで有名。
●1865年、ヴェルディ(ジュゼッペ・1813−1901)は、18年前(1847)に初演した『マクベス』を改訂して、この日、パリのリリック座で改訂版を初演しています。
●1845年、ベートーヴェン(ルートヴィヒ・ヴァン・1770−1827)とほぼ同時代のドイツの作曲家ロルティング(アルベルト・1801-51)の『ウンディーネ』が、マグデブルクで初演。この題材では多くの作曲家がオペラ化を試みています。
●1889年、プッチーニ(ジャーコモ・1858-1924)の第2作目の『エドガール』が、ミラノのスカラ座で初演。「あまり成功しなかったが、決して捨てたものではない」(永竹由幸)との評もあります。
●1911年、アメリカのバリトン歌手ウォーレン(レナード・-1960)が、ニューヨークで生まれています。ヴェルディ歌手として、アメリカのみならず世界の歌劇場で成功をおさめています。


【4月22日】2人の名歌手の誕生日。

●1892年、フランスの作曲家ラロ(エドゥアール・1823-)がパリで亡くなっています。ラロといえば、まず華やかな技巧の『スペイン交響曲』が思い出されますが、オペラにも意欲的で、代表作としては『イスの王様』(1888)があります。
●1912年、イギリスのアルト歌手フェリアー(キャスリーン・-1953)が、ハイヤー・ウォルトンで生まれています。大指揮者ワルター(ブルーノ・1876-1962)との『大地の歌』の録音が印象的でした。
●1935年、イタリアを代表するメッツォ・ソプラノ歌手コッソット(フィオレンツア・)が、クレシェンティーノで生まれています。カラスとの共演も多く『メデア』や『ノルマ』は絶賛されました。11年前に東京、大阪で生誕70歳のリサイタルをしたので、今年は81歳になるはず。
●1939年、イタリア出身のアメリカの作曲家メノッティ(ジャン=カルロ・1911−2007)のラジオ・オペラ『泥棒とオールドミス』が、ニューヨーク・NBC放送で初演されています。


【4月23日】英国、スペインの文豪が同じ日に亡くなるなんて!

この日はなんという日でしょうか。イギリスとスペインを代表する文豪が、同年同日に亡くなっています。
●1616年、シェイクスピア(ウイリアム・1564-)は、ストラッドフォード・アポン・エーヴォンで没しています。数多くの名作を残した52歳の生涯でした。
●そして、セルバンテス(ミゲル・デ・1547-)もまた、同日にマドリードで亡くなっています。こちらは69歳の波乱に満ちた生涯でした。今年(2016年)は、それぞれが没後400年という大きな節目の年にあたります。
●1627年、ドイツ最初のオペラといわれるシュッツ(ハインリヒ・1585-1672)『ダフネ』が初演。残念ながら曲自体は消失しています。シュッツは2度のヴェネツィアに留学でヴェネツィア楽派の技法を身につけ、多くの宗教曲を残しています。
●1775年、モーツァルト(ウォルフガング・アマデウス・1756−91)『羊飼いの王様』が、ザルツブルクで初演(4月29日説もあり)されています。マリア・テレジアの末子がザルツブルクを訪問した際に、その歓迎のために急遽依頼されたもの。
●1891年、20世紀のロシアの代表的な作曲家であるプロコフィエフ(セルゲイ・−1953)が、南ウクライナ(ソンツォフカ)で生まれています。器楽曲、管弦楽曲ばかりでなく、オペラでも『三つのオレンジへの恋』『火の天使』そして大作『戦争と平和』など、多くの作品を残しています。
●1920年、チェコの作曲家ヤナーチェク(レオシュ・1854−1928)の第5作目のオペラ『ブロウチェク氏の旅』が、プラハ国民劇場で初演。主人公が、居酒屋で酔いつぶれ、月に行ったり、はたまたフス戦争の時代にタイムスリップしたりという寓話性の高い展開の中で、風刺的な色合いの濃い作品です。
●1952年、ドイツの伝説的なソプラノ歌手シューマン(エリーザベト・1888-)が、ニューヨークで亡くなっています。戦前のMETやウィーン国立歌劇場で活躍し、ナチスから逃れてアメリカ国籍を得ていました。


【4月24日】浅草オペラで『道化師』日本初演。

●オペラではありませんが、1862年、ヴェルディ(ジュゼッペ・1813−1901)の作曲した『諸国民への讃歌』が、ロンドンのハーマジェスティーズ劇場で初演されています。この曲は、前年に彼は国会議員となり、この年に開催されたロンドン万国博のために作曲されたもの(作詞は、A.ボーイト)。後に、トスカニーニが第2次世界大戦の際に、「裏切りし祖国よ」と歌詞を変更した演奏が残され、有名になりました。
●1923年(大正12年)、『道化師』が浅草の金龍館(根岸歌劇団)で日本初演されました。まさに浅草オペラ全盛期。『道化師』の世界初演は1892年ですから、その31年後に日本で初演されたのです。田谷力三、清水静子、清水金太郎らの出演でした(増井敬二『日本のオペラ〜明治から大正へ』による)。他方、初演は1919年という説もあります。


【4月25日】『トゥーランドット』初演の日は、リューの死まで上演。

●なんといっても今日のハイライトは、1925年にプッチーニ(ジャーコモ・1858-1924)の最後の作品『トゥーランドット』が、ミラノのスカラ座で初演されたことしょう。原作は、ヴェネツィアの劇作家ゴッツィ(カルロ・1720−1806)の寓話劇『トゥーランドット』。しかし、プッチーニは第3幕の「リュウの死」の場面まで作曲したところで力つき、未完成に終わりました。その後、弟子のアルファーノ(フランコ・1875−1954)が、彼が残したスケッチなどを元にして完成させましたが、初演のこの日に指揮したトスカニーニ(アルトゥーロ・1867−1957)は、この「リューの死」の場面まで演奏すると指揮棒を置き、「この部分でプッチーニは仕事を終えたのです」と言って、指揮台を降りたというエピソードは有名です。(幕切れまで演奏されたのは、翌日の上演からでした)
●オペラ作曲家ではありませんが、ヴィスコンティ(ルキーノ・1906-1976)映画のほとんどの音楽を担当した作曲家マンニーノ(フランコ・-2005)が、1924年のこの日に生まれています。『ルートヴィヒ』『家族の肖像』『ベリッシマ』『イノセント』などは、彼の手によるものでした。


【4月26日】シェイクスピア受洗の日。

●4月23日にご紹介したシェイクスピア(ウイリアム・-1616)が、1564年のこの日、ストラッドフォード・アポン・エーヴォンで受洗しています。当時は、誕生日の記録よりも、教会での受洗の日の方が記録されていたのです。
●1923年、イタリアの作曲家レスピーギ(オットリーノ・1879-1936)の『ベルファゴール』が、ミラノのスカラ座で初演。ベルファゴールとは、好色と怠惰を司る悪魔だとか。その悪魔が人間に姿を変え、トスカーナの村に浮気の実態を調査に行くというお話。
●1925年、オーストリアのソプラノ歌手リップ(ヴィルマ・)が、ウィーンで生まれています。戦中にデビューし、戦後モーツァルトなどを得意とし、世界中の歌劇場に出演しました。日本へは59年初来日。訃報も聞かないので、今年91歳になるはずです。


【4月27日】小澤征爾の親友だったスラヴァの命日。

●1812年、ドイツの作曲家フロトー(フリードリヒ・フォン・-1883)が、トイテンドルフで生まれています。多くのオペラを書いたようですが、現在上演されるオペラとしては『マルタ』1曲ぐらいでしょう。
●1867年、オペラ作家としても多作家だったグノー(シャルル・1818—93)の9番目のオペラが、おなじみシェイクスピア原作の『ロメオとジュリエット』。パリのリリック座で初演されています。
●1927年、チェコの作曲家ヴァインべルゲル(ヤロミール・1898-1967)が、最初に成功したオペラがこの『バグパイプ吹きのシュワンダ』。プラハのチェコ劇場で初演されています。彼はその後、ナチスを逃れアメリカへ移住し、そこで亡くなりました。
●1972年、日本の代表的なオペラ作曲家でもあった團伊玖磨(1924−2001)が、武田泰淳の同名の小説をもとにオペラ化した『ひかりごけ』が、大阪の国際フェスティバル・ホールで初演されました。
●2007年、ロストロポーヴィチ(ムスティフラフ・1927-)が、モスクワで亡くなっています。当初チェリストとして活動し、その後指揮者としても活動。オペラでは『エウゲニ・オネーギン』で大成功を収めています。スラヴァという愛称で呼ばれ、たびたび来日し小澤征爾(1935−)との交流は有名。


【4月28日】マイアベーアの最後の作品も、没後に初演。

●1865年、当時パリで絶大な人気を誇ったグラン・トペラ(グランド・オペラ)の作曲家マイアベーア(ジャコモ・1791-1864)の『アフリカの女』は、ヴァスコ・ダ・ガマを題材にした彼にとっては最後の作品。亡くなった1年後にパリのオペラ座で初演されています。
●1920年、アメリカのメッツォ・ソプラの歌手メリマン(ナン・-2012)が、ピッツバークで生まれています。名歌手レーマン(ロッテ・1888-1976)に師事し、トスカニーニ(アルトゥーロ・1867−1957)に認められ、多くの録音に参加しています。
●1940年、イタリアのソプラノ歌手テトラツィーニ(ルイーザ・1871-)が、ミラノで亡くなっています。今世紀初頭の偉大なコロラトゥーラ歌手として、メルバ(ネリー・1861-1931)の上回る人気だったとか。歌唱法にも優れ、「世紀の名歌手カルーゾとテトラツィーニの歌唱法」という本まで出ています。フィレンツェで『アフリカの女』でデビューしたのも、何かの縁?
●1992年、『トゥーランガリラ交響曲』で有名なメシアン(オリヴィエ・1908-)が、パリで亡くなっています。彼自身は、モーツァルトとワーグナーを研究し、自身ではオペラを書かないと公言していたのですが、ポンピドゥー大統領の要請で『アッシジの聖フランチェスコ』という4時間およぶ大作を書いたのです。1983年、小澤征爾(1935−)の手によって初演されています。


【4月29日】偉大な指揮者3人の誕生日とグルリットの命日。

●1842年、オーストリアのオペレッタ作曲家ミレッカー(カルル・-1899)が、ウィーンで生まれています。当時は、ヨハン・シュトラウス、スッペと並ぶ人気作曲家でした。オペレッタ『乞食学生』が代表作。
●1879年、イギリスの指揮者ビーチャム(トーマス・-1961)が、セントヘレンズで生まれています。ビーチャムは、実家が製薬王であったことから、その資金を使って、自ら管弦楽団やオペラ・カンパニー、あるいは音楽祭などを組織し、多くの有望な作曲家を援助し、また紹介しています。
●1895年、ビーチャムと同じくイギリスの指揮者サージェント(マルコム・-1967)が、アシュフォードで生まれています。20世紀最高の合唱指揮者とも言われ、またヴォーン=ウイリアムス(レーフ・1872-1958)やホルスト(グスターヴ・1874-1934)などのオペラの初演も行っています。
●1936年、インド出身の指揮者メータ(ズービン・)が、ボンベイ(現ムンバイ)で生まれています。もともとオーケストラ指揮者としての評価が高かった人ですが、ミュンヘンとフィレンツェにオペラの拠点をおいてから、数多くのオペラ公演を行っています。2011年3月の東日本大震災の時、フィレンツェ歌劇場の来日公演は、急遽キャンセルとなりましたが、彼は敢然と『運命の力』と『トスカ』を振って感動を呼びました。今日で80歳。
●1972年、日本のオペラ発展しには欠かせないドイツの指揮者グルリット(マンフレート・1890−)が、東京で亡くなっています。1939年近衛秀麿の要請でドイツを脱出し、41年からは藤原歌劇団の指揮者に就任。彼によって日本初演された作品は多数あります。また『ヴォツェック』『兵士たち』など自らオペラも作曲しています。
●1929年、ロシアの作曲家プロコフィエフ(セルゲイ・1891−1953)『賭博者』が、ブリュッセルで初演。ドストエフスキー(フョードル・1821−81)の同名の小説に基づいています。もともと1917年にペテルブルクでの初演が予定されていましたが、ロシア革命のために延期され、12年後に初演されたのです。


【4月30日】フランス・オペラの傑作『ペレアスとメリザント』初演。

●1870年、『メリー・ウィドウ』で有名なオペレッタ作曲家レハール(フランツ・—1948)が、ハンガリーのコヌーロムで生まれています。彼の活躍した時代は、ヨハン・シュトラウス時代が「金の時代」と呼ばれたのに対して「白銀の時代」と呼ばれ、他にもホイベルガー(リヒャルト・1850-1914)、カールマン(イムレ・1882-1953)などが活躍しました。しかし、彼の生きた時代のヨーロッパは2つの世界大戦を味わうなど、彼自身も激動の生涯を送ったのです。
●1902年、フランスの作曲家ドビュッシー(クロード・1862-1918)唯一のオペラであるメーテルランク(モーリス・1862-1949)原作による『ペレアスとメリザント』が、パリのオペラ・コミーク座で初演されています。まさにフランス芸術の粋を結晶させた傑作。
●1916年、NHKイタリア歌劇団でも来日したイタリアのソプラノ歌手ノーニ(アルダ・−2011)が、トリエステで生まれています。スザンナやアディーレのチャーミングの歌唱は、年配の方なら忘れられないでしょう。
●1917年、イタリアの作曲家マスカーニ(ピエトロ・1863−1945)の『ロドレッタ』が、ローマのコスタンツィ劇場で初演。孤児の少女ロドレッタの悲劇。
●1971年、ネトケ=レーヴェ(マルガレーテ・1884-1971)が、東京で亡くなっています。ドイツのソプラノ歌手でしたが、大正13年(1924)に来日し、東京音楽学校などでドイツ歌曲を教え、多くの門下生を育てました。日本におけるドイツ歌曲の演奏史には欠かせない名前です。

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