オペラ・エクスプレス

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終焉の美学に酔いしれて「ばらの騎士」ゲネプロレポート―――7月26,27,29,30日に東京文化会館で上演されます

終焉の美学に酔いしれて「ばらの騎士」ゲネプロレポート―――7月26,27,29,30日に東京文化会館で上演されます

今夏、縁あって「ばらの騎士」づいている筆者。この初夏に幕を下ろしたメトロポリタンオペラの昨シーズンの集大成、ライブビューイングに感動したという人は何やら私の周りにも少なくない。そして二期会がこの夏、創立65周年を記念して送る演目が、この「ばらの騎士」なのです。公演に先立ち行われた、ゲネプロを拝見して来ました。

1700年代のウィーンを描いていながらも、このオペラが書かれた時期はまさに豊かで華やかな時代が間もなく幕を下ろし、暗く寂しい争いの世の中になり、古風なしきたりや格式が音を立てて崩れ始めた時期だったのでしょう。そんな末世、今まで当たり前だったことが思い出や記憶の彼方に追いやられようとしていたことに、リヒャルトシュトラウスも気づいていたのかもしれません。

過去とは懐かしいものです。そして、思い出は美しいものです。そしてだからこそ、記憶となって心の奥底で静かに日々を彩り、生きていくうえで前に進もうとする力になっていくもの。おそらくこれはいつの時代も同じでしょう。ことこの作品に関しては、長いこと音楽の世界で主流だったロマン派のやり方、どこに題材を見出し、どのように音楽で表現していくかということについても、間もなく終焉を迎えようとしていることを、時代はもうすでに告げ、それをリヒャルトシュトラウスはしっかりと聞き取っていたに違いない。だからこそそんな中でロマン派の作曲家ができることを、存分に、躊躇せず、雄弁に聴くものに披露した作品。それこそが「ばらの騎士」ではないでしょうか。

ですから、満を持して、日本でオペラを紹介し、上演し続けてきた二期会が、半世紀を優に超えた65周年にもなる歴史を記念した公演を行おうという時に「ばらの騎士」を選んだこと。理解に難くないし、むしろそんな「ばらの騎士」を、しかも最高の形で上演してみたい、日本における歴史に残しておきたいと考えたことは、むしろ当然なことではないでしょうか。

マルシャリンとオクタヴィアンの恋は破局を迎えますが、まったく悲劇的な雰囲気がなく、むしろ全体としての甘美な世界観。しかし、その理由の一つでもある、高貴な人たちの何不自由ないはずの暮らしの中での、生死をさまよう問題ではない、見方によっては実におめでたい話が、必ずしも思い通りにはならないことに対しての、独特の華やかな寂しさはこの作品の特徴ではないかと思うのです。言い換えればそんな話を、ノーブルに、明るく、しかしほろ苦い舞台に表現するのですから、リヒャルトシュトラウスが五線紙の上で表現した世界というのは実に技巧的。ハイテクであるというのとは違って、行間を「読ませるように聴かせ」る巧みさや、演奏の可否を全く考えてはいないのではないかと思うほどの「和さないハーモニー」などもいとわない点は、あるいは、ワーグナーよりも後に誕生した作品に課せられた聴衆の要請によるものかもしれない。そんな妙にいつも感心させられるわけです。

そしてこの作品が、やがてあらゆるものが迎えるさだめ「終焉の時」その瞬間の美学こそこの作品のテーマなのではないか。今回の二期会の舞台を拝見して感じたのはそんなことでした。はじめは「キスもせずに帰してしまった」くらいのことを悔いたりするわけです、マルシャリンは。オックスのひどすぎる言動に「貴族というものは気さくなものです。」などとゾフィーがなだめられたりもするのです。こんなおめでたい貴族の日常が描かれていき、そんな光景を見て辟易とするオクタヴィアンが、婚礼のしきたりで派遣される「ばらの騎士」となってゾフィーのもとに。日本風に言えば「縁あって」でしょうが、こんな事故のような話です。運命のいたずらです。モーツアルト風のオペラを目指したとされるこの作品、軽妙な音楽が連綿と続くものの、このあたりはワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のような印象も受けるものです。しかし、こういうことを深刻にしすぎない、悲劇的にとらえない。貴族のやり方で、サラッと粋に。そう、「粋に」であります。今回の「ばらの騎士」を観て、そんなことに思いを至らせたものです。

私が拝見した日は、マルシャリン(元帥夫人)を林正子、オクタヴィアンを小林由佳、ゾフィーを幸田浩子が演じ、今の二期会のキャストでは最善の布陣ではないかと思うものでした。イタリアオペラとはまた違って、という妙味をしっかり噛みしめて表現できる歌手がそろい、そういう公演にしたいという主催者の意欲、意図のようなものを感じることができる舞台だったと思います。個人的には加賀清孝のファーニナルも、そんな「粋」なウィーンが舞台のオペラで鍵となる好演に目が留まりました。こういうところ、オペラの肝であります。ちょうど冒頭で紹介したメトロポリタンの「ばらの騎士」。今回タクトはこのMETでの「ばらの騎士」と同じセバスティア・ヴァイグレが振ります。読売日本交響楽団との相性も良く、まずこのオペラにおけるオーケストラの重要性と、その上で、どんな名演であろうともライブビューイングだって生の舞台にはかなわないという点はしっかりと日本の聴衆にアピールする好演で、聴衆のまなざしを全編ステージに釘付けにするでしょう。リチャード・ジョーンズによる演出は、クラシックながらモダンな配色は目にも鮮やか。その豊かな色彩と、ステージ上の動きは、時にコミカルながら、終始格調高い場がステージ上に広がり、観る者を存分に楽しませることでしょう。

オックス男爵の目に余る蛮行も、実はそんなに目くじらを立てることではないのかもしれない。「男はみんなこうしたもの」そんな程度の事なのではないでしょうか。そして、オペラには登場しない元帥。カギとなる3人の登場人物による世界感を、観ている聴衆の視線こそまさに元帥の「甘美な悪夢」なのではないか。そんな風に感じました。奥様が若い男と、気が気でないでしょう。しかし「めでたしめでたし」で完結するこの話は、元帥が「まさかそんなはずはあるまい」とどこか不安に、そしてどこか興味本位で想い描く夢のようなものが前提になっているのではないか。そんな風なところはないでしょうか。

夢ならいいのに。と思うことはよくあります。「元帥夫人とオクタヴィアンの甘美な関係」という元帥からすると相当な悪夢。夢の中の出来事「醒めれば終わること」として納めたお話をみている心地がするのです。

ウィーンのスタイルを厳格に厳密に高度に求められる「ばらの騎士」。日本で日本人による公演は最も難しい演目の一つだと思っています。オペラの完成度として、今回の公演が最高だと軽々に申し上げることは難しい演目です、しかしながら最善の「ばらの騎士」には違いない。それはそれほど躊躇なく申し上げていいのではないでしょうか。

「ばらの騎士」は観るといつも心躍る。まあ、こう思えたことがすべてを語り、これだけ申し上げればそれだけでよかったのかもしれませんが。確かに秋に幕の開けるオペラのシーズンよりも、なるほどこんな時期にこそ観る妙味のある演目でした。

夏の思い出。あの日の事を思い出すでしょうか。恋がはじまるでしょうか。これこそオペラなのでしょう。

Text: 中込健太郎(自動車ライター) /写真:長澤直子

ばらの騎士公演情報
2017年7月26日(水)18時/27日(木)14時/29日(土)14時/30日(日)14時
東京文化会館 大ホール

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