オペラ・エクスプレス

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全ての作品の到達点は観客である―――シルヴィア・コスタ講演会「イメージの求心力:アイディアを舞台上に具現化する方法」についての”ノート”

バイエルン国立歌劇場の来日公演《タンホイザー》の初日を2日後に控えた9月19日、シルヴィア・コスタ氏による講演会が、イタリア文化会館で開催された。
コスタ氏は、演出家ロメオ・カステルッチ氏の右腕として活動され、2006年以後の全てのカステルッチ演出作品において、共同演出およびパフォーマーをつとめている。

講演会のタイトルは、「イメージの求心力:アイディアを舞台上に具現化する方法」。
聞き手は、フェスティバル/トーキョー09-13の初代ディレクターとして、カステルッチとコスタを日本に紹介してきた相馬千秋氏(芸術公社代表理事/立教大学特任准教授)。
(日伊逐次通訳付)

およそ2時間余りの講演の、前半部分では、バイエルン国立歌劇場の《タンホイザー》の演出の鍵となるコンセプトや、それを舞台上に具現化する創作のプロセスなどについて、後半は、コスタ氏自身の創作にフォーカスし、今後上演を予定している最新作の構想や創作の方法論などについてが語られた。

ここでは、《タンホイザー》の新演出に付随して、特に興味深く、かつワーグナーの思想にも関係する部分を、抜粋して”ノート”としてお届けしたい。誤認などあればご指摘いただければと思う。
今回、《タンホイザー》をご覧になった方も、また、残念ながら観劇が叶わなかった方も、何か触発されるものがあれば喜ばしく思う。


ある日突然穴に落ちるように演劇の世界へ
未経験が、逆にプラスに働いた

ある日突然穴に落ちるような、急降下な経験で演劇の世界に入ったというコスタ氏。
彼女が演劇の基礎を学んだのは、ごく短い期間で、前ベネツィア建築大学に当たる機関の視覚芸術大学部に三年間在籍していたということであった。そこでは、数学や美学などで、イタリアの文化を代表するような、そうそうたる教授陣と出会い、多大な影響を受けた。
突然演劇の世界に入った彼女は、はじめは女優として、自らの身体・肉体を使って、舞台が要求する様々な事柄に向き合って活動。その後、演出家として舞台と向き合うようになる。
演劇の訓練を特に受けてきたわけではないという経緯もあり、毎回毎回どの仕事も手探りで、様々な作品と対峙し、一つ一つ経験を積んで行った。
特に何かテクニックがあるわけでもなく、何かの理論を持っているわけでもない、ある意味で、「未経験」。だがその「未経験」こそが、演劇というものが秘めている、不可思議さや奇妙な要素を生かす役割を果たしたのではないか。カステルッチ氏自身が、そのような、まずまっさらな状態で作品と向き合うことを第一義として演出する人物である。「未経験」が、逆にプラスに働いた。

何故、ワーグナーを愛するか

カステルッチ氏自身、ワーグナーをとても愛している。
ワーグナーをもって近代の演劇、舞台芸術が始まったと言っても過言でないような存在であるから。総合芸術としてのオペラは、彼とともに始まったと言える。
ワーグナーは、それまでのオペラ劇場のヒエラルキーを一切崩した存在。
舞台芸術の要素である、思想や思考、言葉、そして音楽が創り生み出すものを、ひとつの総合芸術としてまとめ上げた。
ワーグナーの楽劇というのは、ある種のユニバーサルな主題である神話を用いることが多く、現代にも何か通ずるものである。

全ての作品の到達点は観客である

ワーグナーは、「全ての作品の到達点は観客である」という風に言っている。
カステルッチ自身も、「全ての舞台の最後の形というのは観客の頭の中にある」、という風に言っている。最終的な作品の定義は、お客さまの、見ている方々の頭の中で行われる。何か一つの定義があるのではなく、見ている人たち全てが、それぞれに作品の定義づけをして行くものだと。

演劇からオペラへ
新たな視点を切り開くための言葉や音として、オペラを再構築する

演劇自体が大きな大きな矛盾を含んでいる。
演劇というのは時間を創り出し、刻み込む。時間を操作する芸術であると言える。
しかし、オペラにおいて、時間は既に作品の中に決まってしまっている。例えば登場人物の出はけ・ここで感情が盛り上がってここで治まるなど、全て音楽が決めている。演劇において自由であったものが、オペラでは指定されている。まずそのことに戸惑った。
演劇という完全な自由、真白のページを与えられた世界から、かっちりと決められた世界へ。伝統によって、脈々と織りなされてきた密な世界への転換を図る必要があった。伝統によって培われて来た世界に入るにあたり、はなから革命を起こそうという気概を持ってあたるのではなく、深いところでは伝統に寄り添い、まず知り尽くす。そうしたことで、ある意味の革命を起こせるのではないか。そのような姿勢でオペラに臨んだ。

まずオペラというのは、今から100年も以前に、現代とは視点の異なる人々に向けて書かれた言葉である。それがまた、新たな意味合いを持って、現代の私たちに語り掛ける、そういった作品を作ることができたとしたら、やはり素晴らしいことなのではないか。
よくあるような、ただ単にオペラの時代を現代に読み替えるのではなく、オペラの言葉を、新たな視点を切り開くための言葉や音として再構築する。それができれば、私たちの現代にも訴えかけるような言葉、印象になるのではないか。

相馬千秋(左)/通訳(中央)/シルヴィア・コスタ(右)

オペラには、まず「音楽」があるということ。
音楽というのは正真正銘の世界の共通言語であるという事。そうすると音楽が舞台の美的な方向性を示すかカギとなっていくことがよく起こる。やはり答えは音楽の中にあるという経験がよくある。

タンホイザーに現れる「矢」
矢のモチーフが、一幕から三幕にかけて意味合い・見た目を変えて登場

このプロダクションでは「矢」が繰り返し現れる。幕によって意味合いを変えながらも存在し続ける事物として「矢」を用いた。

最初に現れる「矢」は、ヴェーヌスベルクを守る神々が持っている武器としての「矢」。実際のリブレットに「矢」が書かれているのはそこだけで、その後弓矢が現れるシーンは、リブレットにはない。
序曲の中で乙女たちが射る、武器としての「矢」は、美の女神のヴィーナスを象徴する武器でもある。「矢」は、原始からある、プリミティブな武器であることから、最初に登場させて、ヴィーナスの生きる世界のイメージを喚起させるもの。
乙女たちは女性の目を射ている。つまりここでは、既に観客の視線を射るというもの。目は観客を象徴する。的は観客の視線である。

そして弓。二幕では、詩人が自分の武器として射る矢、つまり詩(うた)が存在する。タンホイザー自身が弓を射ると、言葉、詩が何かを突き刺すものとして存在する。
オルフェオの竪琴と関連性があるモチーフ。歌合戦では、詩人に弓を持たせて矢を射させている。

射られた弓によって傷を受ける、射られる存在として、ニオペの息子というモチーフをイメージしている。ニオペは子だくさんを自慢したばかりに神の逆鱗に触れて子どもたちを殺されてしまう人物。その殺された息子がすなわちタンホイザーである。

矢のモチーフが、一幕から三幕にかけて意味合いを変えて、しかも見た目を変えて登場する。

一幕では実際の速さ。射られる武器の矢としての速さで登場する。
二幕ではスローモーション、象徴的にタンホイザーを射る、エリーザベトから射られた矢というのがタンホイザーの心ないし魂を打つものとしてスローモーションで登場する。
三幕では最終的に動かない矢として存在する。ここで私たちがイメージしたのは、ゼノンのパラドックスという、「動いている矢は動いていない」という概念。高速で動いている矢の動きを、瞬間瞬間で切り取ると、そこは止まってっているのではないかという。
矢というのはメタファーとしてこの物語を語るのにふさわしいのではないかという風に考えて取り入れた。
物凄い速さで時間が経過していく三幕。エリーザベトの肉体が崩壊して行く速度。兆速で進行していくものの、瞬間瞬間を切り取ると止まっている矢である。そういった時間の流れというのを矢で象徴した。

タンホイザーとは何者なのか?という問い
2つのエネルギーを肉体の中で共振させる

まずこのオペラを演出するにあたり自問したのは、「タンホイザーとは何者だろう」という問いであった。
彼の中には、二項対立、例えば善と悪、それから享楽的な愛と聖なる愛、ヴェーヌスベルクにとどまるべきかそれとも人間社会・共同体に戻るべきか。タンホイザーはいつも何か二つの相反する力に引き裂かれているという発見をした。
しかし、二項対立を全面に打ち出すのではなく、彼が様々な次元や要素を、肉体の中に持っている。その対立する2つのエネルギーを、彼の肉体の中で共振させる。彼の持っているエネルギーの素として2つ、やはり女性が存在するという風に考えた。
つまりはヴィーナスでありエリザベートであると。そしてその女性自身も肉体を持った生きた女性ではなく、アイデア、概念として打ち立てる。2つの彼女たちが働きかけることで、タンホイザーの中の様々なエネルギーが動き出す、という演技プランを練った。

まずは第一の観念としてのヴェーヌス。
彼女は享楽を象徴する存在であって、しかも度の過ぎた過剰な享楽ということで、形のない、肉体が流れ出してしまったような姿で登場させた。ヴェーヌスをどういう風に登場させるかということは大きな課題であり、しばしば美の象徴として登場する。しかし、あまりの享楽、それから快楽というのが過剰であるとその反対側に反転してしまい、何か忌むべきものとして、そして痛みとして耐えられないものに、なにか息を止めてしまうようなものとして反転させて存在するのではないか。そんなう想像のもとに描いた。
タンホイザーの第一声が「もうたくさんだ。もういい。」という言葉。それがまさにこの過剰な享楽を象徴しているのではないか。具体的な視覚のイメージとしては、ホーレ・フェルスのヴィーナス。ドイツの山岳部で見つかった原始のヴィーナス像で、豊穣・多産を象徴するような像を、偉大なる母なる肉体という事でモチーフとしてとらえた。

そして第二の女性像のエリーザベトがいる。彼女もやはり官能を象徴する存在である。タンホイザーが本当に欲望を感じている、欲求しているのこそエリザベートである。ヴェーヌスが快楽を与えようとする存在であるのに対して、エリーザベトは、タンホイザーにとっては何か届かない、欠損している存在である。人は何かの欠乏を感じないと本物の欲求というのは抱かない。欲求というのは欠損部があって初めて存在するものである。彼女こそタンホイザーの欲望の真の対象であるということを表している。エリーザベト自身は自分の魅力、肉体を含めた魅力について意識はしていないけれども、女神のように隠されたヴェールの底には肉体・官能が潜んでいる。それが衣装にもよく表されていて、ヴェールの中にヌードの絵が描かれている。

体を離れたところでしか愛は成就しえない

もう一つの要素としてちりあくた。埃・灰をモチーフとして登場させている。
ワーグナーの作品は三幕はどの作品も救済のシーン。
『タンホイザー』の場合はエリーザベトと、タンホイザーの死によってその救済ないしは蘇りがなされる。この死というものを、死体が腐乱していく様という風にとらえて三幕を作った。人間の死体がどういう風に腐乱していくのかというのを、科学的なフェーズをつぶさに研究し、実際の歌手に似せた彫刻で再現した。同時にプロジェクションマッピングで、時計が時を刻んでいるのを見せる。一秒だったのが一日になり一週間になり何カ月になり十年経って百年経ってという。最終的には灰と化した、塵と化した二人。また再び結ばれるのは、ちりあくたとしてである。しかもそれが混ぜられる、彼らの死体の灰が混ぜられることで二人は蘇る。最終的には星になってまた別の時空に蘇るということを表した。

唯一の愛を本当の意味で成就するには。体を離れたところでしか愛は成就しえない。

オペラの欠損部を観客の一人ひとりが補完する

人間の眼球の中にはいくつか、暗い部分や見えない部分がある。視覚情報が脳に送られると、イメージとしてそこには欠損部がある。それを脳が補完して私たちは物が見えているという風に認識する。実際信号として送られる、私たちの眼球が送っている情報には、欠損部分・暗闇の部分がある。これがマクラチェーカというもの。これこそまさに舞台にもあるのではないかという風に思う。
闇の部分というのは、観客の一人ひとりがそこを埋めていくべきもの、補完して解釈すべきものである。あらゆるオペラは、何か解決策やを答えを与えるために存在するのではないと、私たちは考えている。
そのオペラ、ないしは物語からの問題提起を、もう一度私たちの目の前に立ち上げるために舞台芸術はあるのではないか。私たちはそう考える。

オペラを見た皆さんのイメージの中には必ず欠損部がある。それを補完するのは見ている観客の一人ひとりであるという事。


この後の講演会の後半では、コスタ氏自身の創作にフォーカス。今後上演を予定している最新作の構想や創作の方法論などについてが語られた。
続く客席からの質疑応答でも、オペラに対する関心の高さがうかがえた。

取材・文・写真:Naoko Nagasawa


シルヴィア・コスタ講演会「イメージの求心力:アイディアを舞台上に具現化する方法」
2017年9月19日(月)19時

主催:シアターコモンズ(NPO法人芸術公社)、イタリア文化会館
協力:公益財団法人日本舞台芸術振興会(NBS)
入場:無料

シルヴィア・コスタ Silvia Costa
演出家。イタリア、トレヴィーゾ出身。ヴェネツィア大学で舞台芸術および視覚芸術を学ぶ。2006年の卒業以後、演劇という変幻自在なメディアについてあらゆる角度から考察し、その未知の可能性を開拓する実験を行ってきた。演出や出演のみならず、衣装デザイン、照明も自ら手掛け、演劇作品やパフォーマンス、インスタレーションなどを多数創作。
(イタリア文化会館催し物案内より転載)

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