
歌が美しく、見目もうるわしい三人のテノール、
ピルグ、コルチャック、ファナーレは「一粒で二度おいしい」
—————————————————————香原斗志(オペラ評論家)
三大テノールは一世を風靡したけれど、三大ソプラノが流行ったことはない。ましてや三大バリトン、三大バス、三大メッゾソプラノという企画が、プロデューサーの脳裏をよぎったことなどないのではないか。やっぱりテノールはオペラの花形なのだ。明るく輝かしい声、やわらかく甘い声、さんざめく超高音。聴き手はそれに理屈抜きに陶酔する。そして三大テノールがそうだったように、太っていても、ヒゲもじゃでも、聴き手はそんなことにはお構いない。声に心を揺さぶられれば、それでいい――。
とはいっても、テノールは若い恋人役を演じることが多いから、声に見合った美しく甘いルックスであるに越したことはないだろう。すぐれたテノールであれば、声だけでじゅうぶんに恍惚感を得られるけれど、加えて見目うるわしければ、一粒で二度おいしい(古い?)ではないか。もうひとつ加えれば、甘くやわらかい声を十全にコントロールし、恋や理想に燃える若者らしく、たっぷりとニュアンスをこめて歌ってほしい。一本調子や絶叫調では口説かれた側も心地よくないだろう。
幸いなことに、そんな二度おいしい(しつこい?)テノールがこのところ、続けざまに登場している。その一人はアルバニア生まれのサイミール・ピルグ(35)。2月25日に紀尾井ホールで日本デビュー・リサイタルを行ったが、世界的にはすでに主要歌劇場を総なめにしている。リサイタルはいわゆるイタリア古典歌曲からはじまり、モーツァルトやドニゼッティをへてヴェルディ、そしてグノーやマスネらのフランス作品へと展開するオーソドックスで知的なプログラムだった。感じられたのは若いころのパヴァロッティとの共通点だ。元来、官能的な美声の持ち主で、それを慎重にコントロールして美しいフレージングを聴かせる。一方、映画スターばりの容姿はパヴァロッティとは似ても似つかない。
リサイタル終了後に食事を共にしたが、思ったとおり、本人がパヴァロッティを意識していた。また私は、ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバル(ROF)で《アディーナ》(2003年)、《ブルスキーノ氏》(07年)と、2回も彼の歌を聴いていたらしい(忘れていてゴメンナサイ)。やはりロッシーニをへているので、表現がやわらかく、そして自在なのだ。20歳のときからイタリアに住んでいるそうでイタリア語も美しく、また、「ロッシーニを歌うには自分の声は重すぎるが、ドニゼッティやベッリーニは歌っていきたい」と語っていた。しかし、ロッシーニで声の柔軟さを習得したからこそ歌えるのである。そのことをピルグ自身、自覚していた。実は、新国立劇場で二度歌うチャンスがあったが、スケジュールなどの関係で逃しているという。次回はぜひ、実現させてほしい。
続いてロシア生まれのディミトリー・コルチャック(36)。4月に新国立劇場で上演されたマスネ《ウェルテル》のタイトルロールに急遽、代役として呼ばれ、見事に役割をはたした、というより公演の質を非常に高めてくれた。やさしそうなイケメンだが少し翳りをただよわせ、見るからにウェルテルだったが、歌もウェルテルそのものだった。メランコリックな陰影のある美しいフレージングと、それを際立たせるドラマティックな表現。ところどころアルフレード・クラウスを思わせる響きも湛え、今日、最もすぐれたウェルテルのひとりではないかと感じた。10月15日、16日にはマリインスキー・オペラの来日公演で《エフゲニー・オネーギン》のレンスキーを歌う予定だが(東京文化会館)、悲痛に切々と訴えるレンスキーのアリアは、実はコルチャックのために書かれたのではないかと思うくらい親和性を感じる。
実は、コルチャックもペーザロのROFの出身なのだ。私は2007年の《泥棒かささぎ》、08年の《ひどい誤解》、13年の《湖の女》などを聴いたが、やわらかい声を軽く、やわらかく響かせ、メリハリのあるアジリタを敏捷に表現できるすぐれたロッシーニ・テノールだった。ドラマティックな声に成長し、もうロッシーニは歌わないのかもしれないが、いまの表現力がロッシーニを通して得られたものであることは間違いない。
とこんなふうに、男から見れば嫉妬したくなるような奴らばかりだが、男だってオペラをとおして疑似恋愛するには、こういうイケメンに思いを託すほうがいいのである。天から二物を与えられた(スターは稼げるから三物?)人材が、こんなによろこびをもたらしてくれるのだから、自分には一物も与えられなくても仕方ない……?
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