オペラ・エクスプレス

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10/11東京オペラシティで開催される、イタリア・オペラにこだわったリサイタル―――西村悟さんインタビュー(全4ページ)

10/11東京オペラシティで開催される、イタリア・オペラにこだわったリサイタル―――西村悟さんインタビュー(全4ページ)

平成25年度の五島記念文化賞オペラ新人賞を受賞し、イタリアで研鑽を積んだテノール、西村悟(にしむらさとし)さん。10月11日(水)には、山田和樹さん指揮の日本フィルとともに東京オペラシティコンサートホールでリサイタルを行います。

スポーツが得意で、声楽を始める以前はバスケットボールをしていたという西村さん。

声楽家になるまでの経緯から、ご自身の目指す方向性、更には今後の活動についてなどを伺ったインタビューです。

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◆バスケ漬けの毎日から一転して音大へ

Q:西村さんはスポーツが得意で、声楽を始める前はバスケット・ボールをしていたそうですね?

A:そうなんです。小学校では野球をやって、中学校と高校でバスケをやっていました。スポーツばかりの生活でしたね。

Q:どうしてバスケを選んだのですか?

A:もともと両親がやっていたんです。二人とも体育の教員でした。父がバスケット・ボールの顧問をしていたので、僕が3歳くらいから、土日には体育館に連れて行ってもらっていました。バスケットは僕にとっては遊びだったんです。小学校の時は隣に住んでいた方が野球チームのコーチで、僕の父も野球、特に長嶋茂雄さんが大好きだったので野球を選んだんです。六年生のときはキャプテンでした。

そのまま中学校に行っても野球を続けようと思っていたんですが、中学の野球部って坊主にならないといけないんです。それが嫌でバスケット・ボールにしました。野球の顧問の先生には「こっちに来てくれ」って言われていたんですが「すみません、坊主が嫌なんです。」って(笑)。

Q:そのままずっとバスケット・ボールを続けたんですか?

A:そうです。中学校の時には全国大会に行きましたし、高校はバスケット・ボールでの推薦入学でした。寮に入って三年間バスケ漬けでした。

Q:そのようにバスケット・ボールに集中している選手の方の場合、高校の後はどのような進路が可能なんですか?

A:よほど上手ければ、バスケット・リーグの選手になるのがベストですね。次に考えられるのが大学の体育学部に行って体育の教員になる。父のようにですね。でも僕らはインターハイの全国大会の予選で負けちゃったんです。それで、そのまま体育学部に行っても両親と同じような感じになるだろう、それだと面白くないな、と思って。かといって、経済学部や文学部に行って何を学ぶのか?というのがあったので、それなら身体を使う実技系の科目に行きたいと思いました。とすると音楽しかないかな、と半ば強引に音楽に決めました。

Q:音楽はそれまで何かやっていたんですか?

A:お稽古ごとでピアノを習っていました。小学校六年まで。両親が理想とする男性像が、頭がいい、スポーツが出来る、音楽が出来るというのがあったらしいんです。それでまあ僕は、頭は良くない(笑)。スポーツはまあ出来る。あとは音楽だね、ということになり。小学校一年から習ったんですが、最初は発表会には出ないという条件で了承しました。人前で弾くなんて絶対嫌だって。でも六年まで続いたし、ピアノはなんとなく好きだったみたいです。発表会にもいつのまにか普通に出ていました(笑)。でも中学校で部活が始まると定期的には行かれなくなり、行ける時には電話して行きます、というような結構フレキシブルな対応をしていただいて。

Q:歌はお好きでしたか?

A:ポップスは良く歌っていました。母が小学校の体育の教師で、姉も年が離れていたので帰宅が遅く、家には僕ひとり。ですから一人でピアノを弾きながらミスターチルドレンやサザンオールスターズを歌っていました。


◆音楽の教員になってバスケ部の顧問になろうと・・・オペラ歌手という職業の存在すら知らず

Q:やはり音楽もお好きだったんですね。

A:そうでしたね。最初は音楽の教員になろうと思ったんです。その頃はオペラ歌手なんていう職業があることすら知らなかったので。音楽大学に行って中学か高校の先生になってバスケットボール部の顧問になり、そこを強くして全国大会に出すぞ!って。まだ頭は100%そちらにいっていました(笑)。

Q:最初から声楽科に?

A:音大に入る前に夏期講習があって参加したんです。先生になるためには音楽教育科がいいだろうと思ったんですけれども、ピアノが上手くないと入れないと言われまして。ピアノはずっと弾いていなかったので…。それに楽典もソルフェージュも知らない。こんな状態でどうやったら入れますか?と当時教えていただいていた先生に聞いたら、その先生は日芸(日本大学芸術学部)の先生だったのですが、「君、歌だったら入れるかもしれないね。」とおっしゃるので、「歌でも先生になれますか?」って聞いたら「もちろんなれますよ」と。「じゃあ僕、歌にします!」って声楽科にしたんです。それが歌との出会いでした。最初はもう本当に物真似です。オペラ歌手ってこうやって歌うんじゃない?みたいな勝手なイメージで、イタリア歌曲集の「カーロ・ミオ・ベン」なんかを歌っていたんです。

大学に入ってからのレッスンもそういう感じでした。先生があまりいじる方ではなくて、「君、うまいね、うまいね」って褒められて、「そうですか?ありがとうございます!」なんて言って、楽しくてしかたがなかった(笑)。日芸は校風も自由だったので、色々なことに挑戦しました。試験も、ヴェルディの難しいアリアなんかを背伸びして歌って。

Q:例えばどのような曲ですか?

A:もう言うのも恥ずかしいくらいですけれど。声楽科の学生は少なかったので、二年生以上で試験で一位になった学生は定期演奏会に出演してオーケストラ伴奏で歌えるんです。僕は三年生の時に歌の実技で一位を取って、ヴェルディ《イル・トロヴァトーレ》からアリア「いとしの君よ Ah, sì, ben mio」とカバレッタ「恐ろしい炎 Di quella pira」を歌ったんです。そうしたら先生が、「君、ちょっと藝大大学院を目指してみたら?」と言ってくださって。

その時はまだ音楽の先生を目指していて、オーケストラ伴奏で歌ったのもいい思い出になるな、と思っていたんですが、そう言っていただき、「じゃあ、ちょっとやってみよう。」って。それで藝大大学院の試験を受けたんです。そうしたら一次試験、二次試験に受かってしまって。なにしろ記念受験のつもりだったので、そこまで受かると思っておらず、準備不足で三次試験で落ちてしまいました。でも三次はオペラ史と語学だったんですね。じゃあ、一次、二次の歌は合格したんなら、もしかして自分は通用するんじゃないか?と思いました。それなら勉強し直して来年もう一度受けてみようって。そして必死で勉強して次の年に合格する事が出来ました。


◆教育の現場でやるよりも自分が何かをやってその背中を子供たちに見せたい

Q:やっとオペラ歌手への道が見えてきました(笑)。

A:でもまだオペラ歌手になるとは思っていなかったです(笑)。先生になるための教育実習にも行きました。でも実は、教育実習に行った時にうっすらと、僕は教育の現場でやるよりも自分が何かをやってその背中を子供たちに見せたい、と思ったんです。例えばイチローがいるから野球をする子供たちがいる。もうちょっと勉強して、僕が歌っているのを見て子供たちが何かを感じてくれればいいな、そのくらい歌が上手い人になりたいと。だから今思えば、藝大に入る前にもう心の中では歌手への道を目指す気持ちが芽生えていたようなんです。

Q:藝大での経験はいかがでしたか?

A:当時雲の上みたいに思っていた藝大ですが、入ってみたら僕も少しは通用するかも、と思うことが出来ました。色々な先生に出会え、その中の一人、マルチェッラ・レアーレ先生は新国立劇場研修所の講師もなさっている方でしたが、「サトシ、コンクールを受けてみなさ〜い。」って言ってくださったんです。僕がついている先生も「挑戦してやってみたら?」とおっしゃるので、日伊声楽コンコルソのミラノ部門に挑戦しました。そうしたら何と一位をいただいて。その賞金で来年イタリアに行ってくださいということになったんです。そこで大学院を一年で休学し、ボローニャ音楽院に一年間留学することに。その時に腹をくくりました。それならオペラを職業にしようと決意したんです。

へ続く

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