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【オペラ暦】—5月9日—ゲーテと並ぶドイツの大詩人シラー、亡くなる

【5月9日】ゲーテと並ぶドイツの大詩人シラー、亡くなる

⚫️1740年、ナポリ楽派のオペラの巨匠パイジェッロ(ジョヴァンニ・1740-1816)が、ターラントで生まれています。モーツァルトとほぼ同年代で、オペラ・ブッファでの第一人者でした。
⚫️1805年、ゲーテと並ぶドイツの国民的な詩人・劇作家シラー(ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・1759-)が、ヴァイマールで亡くなっています。彼の作品には多くの作曲家がオペラの原作として取り上げています。
⚫️1812年、ロッシーニ(ジョアッキーノ・1792-1868)のファルサ『絹のはしご』が、ヴェネツィアのサン・モイゼ劇場で初演。
⚫️1857年、プッチーニ・オペラの台本作家として知られるイッリカ(ルイージ・-1919)が、ピアツェンツァ近郊で生まれています。プッチーニ以外でも、ジョルダーノの『アンドレア・シェニエ』やマスカーニ『イリス』などの台本も手がけています。
⚫️1893年、19世紀から20世紀にかけての大ピニストでもあったラフマニノフ(セルゲイ・1873-1943)のオペラ『アレコ』が、モスクワのボリショイ劇場で初演。
⚫️1914年、イタリアの指揮者でスカラ座やコヴェント・ガーデンなどで活躍したジュリーニ(カルロ=マリア・-2005)が、バルレッタで生まれています。
⚫️1957年、ドン・ジョヴァンニなどを得意としたイタリアのバス・バリトンのピンツァ(エッツィオ・1892-)が、スタンフォードで亡くなっています。
⚫️2012年、オペラ研究家として数々の名著を残した永竹由幸(1938-)が、東京で亡くなっています。本稿の執筆も永竹先生の著作の助けによるところが大きいのです。

[コラム]

1805年5月9日、ドイツの詩人シラー、ヴァイマールで死去
日本人にとって、シラーといえば「歓喜の歌」である。ドイツ語圏以外の国で、ベートーヴェンの『第九』を原語で歌える人数は、多分日本が一番多いに違いない。反面、それほど日本人が愛してやまないベートーヴェンの『第九(合唱付)』の作者であるフリードリヒ・フォン・シラーについて、現代の日本人は意外なほど知らないではあるまいか。明治・大正期には、シルレルと呼ばれて人気があった。ドイツ文学史上では、ゲーテと並ぶ国民的な詩人・劇作家としての評価を受け、数多くの名作を遺している。彼の戯曲は初期のシュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)時代から一貫してロマン的な作風であり、それが多くの作曲家の創作意欲をかき立てたのであろう。とくにヴェルディは初期のころから、シラーが匿名で書いた処女作『群盗』を題材とし、この他にも『ジェノバのフィエスコの反乱』を『シモン・ボッカネグラ』に、『オルレアンの乙女』を『ジョヴァンナ・ダルコ』に、さらに『ルイザ・ミラー』『ドン・カルロス』と、5作品もシラーの原作に依っている。他の作曲家も、ロッシーニは『ギョーム・テル(ウイリアム・テル)』、ドニゼッティは『マリーア・ストゥアルダ』、チャイコフスキーも『オルレアンの少女』をオペラ化するなど、まさにドイツを代表する作家の面目躍如だ。
 ヴァイマールには、ゲーテとシラーが並んで立つ銅像があるが、最初の出会いではお互いに好印象を持たなかったらしい。後になって肝胆相照らす仲となったという。死の直前にもゲーテと一緒に観劇中に気分が悪くなり退席し、その後自宅で亡くなった。その翌年、ゲーテは秘密裏にシラーの骸骨をアンナ・アマーリア図書館から借り出し、それを眺めながら『シラーの骸骨に寄す』を詠んだという。シラーもいい迷惑だろうが、ゲーテもあまりいい趣味ではない。


新井 巌(あらい・いわお)
iwao
1943年、東京に生まれる。レコード会社を経て広告界に転じ、コピーライターとして活躍。東京コピーライターズクラブ会員。中学生の頃からクラシック音楽にひたり、NHKイタリア歌劇団の『アンドレア・シェニエ』日本初演を観劇したことが自慢の種。フェニーチェ劇場焼失の際には、再建募金友の会を主宰し、現在は「フェニーチェ劇場友の会」代表。日比谷図書文化館で「オペラ塾」を定期的に開催している。オペラ公演プログラムの編集にも携わっている。

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