オペラ・エクスプレス

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川端康成のオブセッションを共有。視覚、聴覚を常に刺激してくる舞台―――オペラ「眠れる美女~House of the Sleeping Beauties~」

川端康成のオブセッションを共有。視覚、聴覚を常に刺激してくる舞台―――オペラ「眠れる美女~House of the Sleeping Beauties~」

12月10日、11日の両日、オペラ「眠れる美女」の初演が東京文化会館大ホールで行われた。東京文化会館の開館55周年、そして日本ベルギー友好150周年を記念して上演された本作品は、直前に公開されたリハーサル(先日のレポートを参照のこと)からさらに細部まで検討を重ね、ついにその姿を見せた。この舞台に示されたものは、この小説が一般に思われがちな”男性が夢見る都合のいい愉しみ”でも、ましてエロティックな妄想でもなく、男性性の根源的なオブセッション(強迫観念)だろう。どこまでも私的な、しかし普遍的なテーマに小説で迫った川端、そしてその作品に多方面から光を当てたスタッフによりオペラは創り上げられた。今回の”里帰り”のためのリハーサルにおいて、初演プロダクションからさらに作り込んだ今回の舞台は”改訂版”に近いものとして、新たな彫琢を経て蘇った。東京文化会館大ホールという広い会場で、川端康成のオブセッションを老若男女が集まった聴衆に共有される感覚はなんとも不思議なもの。視覚、聴覚を常に刺激してくる舞台によって、聴衆それぞれがそれぞれの感慨を抱いたことだろうと思う。

今回上演されたオペラ「眠れる美女」は、川端康成の小説「眠れる美女」を創作集団LODが2009年にオペラ化したものだ。創作したグループLODは、過去にミラノ・スカラ座、ベルリン国立歌劇場での「ニーベルングの指環」(ダニエル・バレンボイム指揮)の演出を手掛けたことでも知られる、欧州を中心に広くオペラ、演劇などを手がけている。先ほど挙げた「ニーベルングの指環」に参加した演出のギー・カシアス、美術のエンリコ・バニョーリ、振付のシディ・ラルビ・シェルカウイらのチームに、作曲と台本のクリス・デフォートらが加わって作られたのがオペラ「眠れる美女」だ。

オペラ「眠れる美女~House of the Sleeping Beauties~」より

オペラ「眠れる美女~House of the Sleeping Beauties~」より

原作となった川端の小説は物事が大きく展開されるようなものではなく、不思議な‘’娼館‘’で主人公の江口が想起するもの思いがその大部分を占める心理小説だ。「薬で眠らされた若い女性と同じ部屋で交流のない一夜を過ごす」その館で、江口は物言わぬ彼女たちを通して現在の自分を、過去の女性を思い出すのだ。江口ははじめ、この一方通行の逸楽に対してとまどいや抵抗を感じるものの、通いなれるうちこの館が提供する快楽に慣れ、探りながらではあるけれどその限りを極めようと、いささか不穏な暴力性も見せ始める。とはいえ、それはあくまでも彼の想像の内の、言ってしまえば妄想的なものだ。その変化が明示される最後の訪問となる夜の江口はすっかり常連気取り、どこまでが許されるのかを倫理的にも、客として許される限度をも試すようなけれど、実際には暴力性を解放することはなく、むしろコミュニケーションが成立しない他者との共存の中で内面へと沈み込んでいく。ついには目の前の眠る美女が老い始めた自分にとって最後の女であること、そして彼女をとおして自分の”最初の女”である母のヴィジョンに至るのだ。この認識に行き着くことで、江口はこの館から離れることができただろう、憑き物が落ちたような解放感を得て。しかしこの作品は不道徳な、いやアモラル(無道徳)な領分と戯れた彼をそう優しくは解放してくれない。江口と同衾していた、眠っていたはずの娘は死んでおり、そのことによってこの館がはじめから含み持っていた怪しさ、いかがわしさに彼は直面させられることになる。作品の途中で「高齢の客の側が死んだ」ケースについては言及があったし彼自身の恐れもそこにあった、しかし館の客に若さや美しさによって生命力を喚起してきた美女の死は、そのままこの館のもたらしてくれた幻想そのものの死でもある。自らの罪を知らされたオイディプスさながらに、江口は不慮の事態に混乱する館から逃げるように去ることしかできない。

オペラ「眠れる美女~House of the Sleeping Beauties~」より

オペラ「眠れる美女~House of the Sleeping Beauties~」より

この小説から、伝統的な「オペラ」作品とはまったく性格の異なる刺激的な作品として創りだされたのが今回日本初演されたオペラ「眠れる美女」だ。主人公の江口を役者と歌手により二重化させ、彼が虚実のあわいで戯れる女性たちはソプラノと四人の女声アンサンブルによる音楽、ダンス、映像により複合的に表現される。音楽は独奏者集団として機能するよう求められる室内オーケストラが、それぞれに雄弁に主張することで形作られる舞台はまさに多面的なものとなった。視覚には演技とダンス、そしてプロジェクションが、聴覚には音楽と芝居がそれぞれ力強く訴えかける、実に複雑な作品だ。
今回の日本初演には、世界初演にも参加した指揮のパトリック・ダヴァン、ダンスの伊藤郁子らも参加し、ソリスティックな技量が要求される特殊な編成のアンサンブルは、東京藝大シンフォニエッタが担当した。作品の”枠”を作る「語りによる劇」として示される「館での主人公と女将の対話」に長塚京三と原田美枝子が参加し、それに伴うセリフ部分の日本語化により(歌唱は英語、部分的に日本語)、今回の日本初演は2009年の作品の単純な再演ではない、特別な舞台となった。

オペラ「眠れる美女~House of the Sleeping Beauties~」より

オペラ「眠れる美女~House of the Sleeping Beauties~」より

音楽はバロック風から映画音楽風(もしかするとシュトラウス風、かもしれない)、そして無調やジャズやポピュラーなど、幅広い作風が場面に応じて用いられる折衷的なものだ(作曲のクリス・デフォートはジャズピアノの名手でもある)。
舞台上方のステージで映像的に示されたダンスは、紗幕やライティング、助演や吊りなども駆使して視覚的に作り込まれており、初演からの変化も大きかった部分だと聞く。アップで投影される女性の顔とのアイロニカルな関係は聴衆を常に不安定な心理状態に置く。
そして対話劇として示される部分が終わって歌と映像の場面に移行しても、全篇にわたって江口と女将は舞台に居続ける。江口役の長塚京三は館への入退場の場面から、主人公のダブルが歌いだしても歌手とのやりとりがあり、女将役の原田美枝子にしても舞台上手側の客席から見える場所に居続け、奇妙な娼婦館の日常なのだろう、手持ち無沙汰な夜の勤めを演じ続ける。
これらの要素が同時に展開されるステージを前に、何に着目するのかどこに耳を向けるのかで作品から受ける印象は大きく変わる。音楽に集中すればその多様式な折衷的作風から読み取れるものがあるし、二人の名優の演技を軸に見るならばこの館の在り方が見えただろう、そしてそれらへの反応として踊られるダンス、プロジェクションは多くの示唆をもたらしてくれたことだろう。
芝居は基本的に台詞として書かれた言葉通りに一義的に、リアリズムで示されるけれど、非言語コミュニケーションである音楽やダンスが表現するものは多義的なものにならざるを得ない。それらを多重化することによって人により、いや見るたび経験されるたび姿を変える”読み”を挑発し続ける舞台は、現在進行形で作られる作品を楽しむ醍醐味を示した。だが今回の日本初演はわずか二回の上演だったから、この舞台の多面性を味わい尽くすには至れなかった感は否めない。困難は承知で申し上げたいのだが、できうるならば舞台を近い位置から隅々まで見渡せる、小さめの会場で繰返し触れてみたい。そう思わせる、印象的な作品だった。

オペラ「眠れる美女~House of the Sleeping Beauties~」より

オペラ「眠れる美女~House of the Sleeping Beauties~」より

取材・文:千葉さとし reported by Satoshi Chiba / photo: Naoko Nagasawa


オペラ「眠れる美女~House of the Sleeping Beauties~」
2016年12月10日(土)/11日(日) 15時
東京文化会館 大ホール

原作:川端康成
作曲:クリス・デフォート
台本:ギー・カシアス、クリス・デフォート、マリアンヌ・フォン・ケルホーフェン
ドラマトゥルク:マリアンヌ・フォン・ケルホーフェン
指揮:パトリック・ダヴァン
演出:ギー・カシアス
振付:シディ・ラルビ・シェルカウイ

キャスト
老人:オマール・エイブライム(バリトン)
女:カトリン・バルツ(ソプラノ)
老人:長塚京三(俳優)
館の女主人:原田美枝子(俳優)
眠れる美女:伊藤郁女(ダンサー)
眠れる美女たち:原千裕/林よう子/吉村恵/塩崎めぐみ(コーラス)

管弦楽:東京藝大シンフォニエッタ
美術:エンリコ・バニョーリ/アリエン・クレルコ
照明:エンリコ・バニョーリ
映像:アリエン・クレルコ
衣裳:ティム・ファン・シュテーンベルゲン
舞台監督:菅原多敢弘
共同制作:LOD(ベルギー)

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