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熱く告白した“デート”の成果———遅ればせながら、ネトレプコ様、「惚れなおしました」

遅ればせながら、ネトレプコ様、「惚れなおしました」
                          香原斗志(オペラ評論家)
デートの成果
「イヤよイヤよも好きのうち」であったと熱く告白しておきながら、“デート”の成果を報告しないといのも失礼な話だから、たいへんに遅ればせながら報告したい。3月18日にサントリーホールで行われたアンナ・ネトレプコのコンサートである。もっとも、そのコンサートの正しい呼び名は「アンナ・ネトレプコ・アンド・ユシフ・エイヴァゾフ・イン・コンサート」。コンサートでネトレプコが物理的にはたす役割は、文字どおり、ちょうど半分だけで、もう半分は彼女の夫になったテノール歌手が受けもっていた。

 この、まだ無名の若いテノール、S席が3万8000円のコンサートで自分を披露するなんて、さぞかしプレッシャーがかかるのではないかと思ったけれど、むしろ、チケットが高いがゆえに一音たりとも聴き逃すまいと必死にかぶりついている人が多いなかで、またとないアピールができたのではないだろうか。

 ともあれ、コンサートを振り返ってみる。1曲目はチレーアの《アドリアーナ・ルクヴルール》から「私は神の卑しいしもべです」。ひと言でいって歌が気高い。そしてピアニッシモを光沢のある上等な絹のように引っ張り、のっけから圧巻だ。エイヴァソフが歌ったのにつづいて――彼の歌については、最後にまとめて記すことにしよう――、ヴェルディの《イル・トロヴァトーレ》から「穏やかな夜……この恋を語るすべもなく」。1曲目からそうだったが、ネトレプコの声は倍音をともなって美しく響く。彼女は、フレーズに臨機応変、変幻自在に強弱をつけて表現するが、ピアノでもフォルテでも倍音がまったく失われず、あらゆる音域がオクターブの幅をもって響くのだ。そして、後半のカバレッタを軽やかなトリルと切れのよいアジリタを織りまぜて、とても優雅に歌った。

 前半の最後はヴェルディ《オテッロ》の二重唱「すでに夜も更けた」。いうまでもなくネトレプコの歌は叙情的なうえに、どうしようもないくらい官能的。彼女は演技巧者でもあるから、聴いているこちらがオテッロ以上に恍惚とさせられてしまう。

 後半はプッチーニ《蝶々夫人》から「ある晴れた日に」。ちなみに、このアリアは、今回のプログラムにもあるように、たいてい「ある晴れた日に」と表記されているけれど、「晴れた」と訳されているbel(美しいとか良いの意)は、ここでは天気ではなく、蝶々さんにとって「良い」という意味なので、ただ「ある日」と訳したほうがいいのではないか。それはともかく、ネトレプコはベルカントの様式感が色濃い《イル・トロヴァトーレ》からヴェリズモ的な芸術観が支配的なプッチーニのドラマティックな曲に移っても、実に自然で美しく、どんなに激しい表現も絶叫にならない。

 続くジョルダーノ《アンドレア・シェニエ》の「亡くなった母を」は、さらに劇的に歌うべきアリアだが、ネトレプコはどんなに強く歌っても響きが丸くて、聴いていて心地よい。つづく同じオペラの二重唱「貴方のそばでは、僕の悩める魂も」でも同様だった。このところ、私はネトレプコが「ヴェルディの初期作品を歌うために生まれてきたソプラノなのではないか」と思っていたけれど、加えて「ヴェリズモを歌うために生まれてきたソプラノかもしれない」と思わされた。ともすると絶叫のオンパレードになりがちなヴェリズモ・オペラを、ネトレプコほどやわらかく、気品を漂わせて表現できるソプラノは、ほかに見当たらないだろう。あらためて「惚れなおした」次第であった。

 さて、夫君のエイヴァゾフだが、とにかく、すごい声だった。なにがすごいって、声が出るわ、出るわ、あふれんばかりに出るのである。《イル・トロヴァトーレ》の「ああ、あなたこそ私の恋人」では、フレーズをあらんかぎりに引っ張って、いつまでも引っ張っているから、指揮のヤデル・ビニャミーニがなんどもなんども振り返って、いつまで引っ張るのか確認している。つづく「見よ、恐ろしい炎を」では、ハイC、もちろん半音下げるなんて野暮なことはせずに、パヴァロッティの録音でしか聴いたことがないくらい引っ張った。アンコールで歌った《トゥーランドット》の「誰も寝てはならぬ」も、最後のハイHを、これもパヴァロッティの録音でしか聴いたことがないレベルで伸ばし、大喝采をさらっていた。

こうして、声の威力をアピールできたけれど、ただし、彼はフレーズに強弱をつけることも、ネトレプコが得意な魔法のようなニュアンスを加えることもできない。一定の調子の声を、ひけらかすように頻繁にテンポ・ルバートするのだ。年上の妻とは音楽性がかなりちがうのだが、しかし、である。こんなにラクラクと声が出て、息が長くつづき、しかも高音が軽々と出るテノールは滅多にいない。野球でいえば清原和博のようなポテンシャルがきわめて高い歌手である可能性がある。かしこいネトレプコのもとで、夫が清原のような道をたどるとは考えにくい。しっかり管理し、教育して、大成させてくれるのではないか。そう願いたいものである。


アンナ・ネトレプコ スペシャルコンサート in JAPAN 2016
3月18日(金)19時 サントリーホール
【出演】
アンナ・ネトレプコ(ソプラノ)
ユシフ・エイヴァゾフ(テノール)
ヤデル・ビニャミーニ(指揮)
東京フィルハーモニー交響楽団

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