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「蝶々夫人」論、演技・演出論の”ノート”―――中央大学人文科学研究所主催公開講演会「演出家・笈田ヨシ、《蝶々夫人》を語る」

「蝶々夫人」論、演技・演出論の”ノート”―――中央大学人文科学研究所主催公開講演会「演出家・笈田ヨシ、《蝶々夫人》を語る」

「全国共同制作プロジェクト」として金沢、大阪、高崎、池袋と全国四箇所五公演が開催されたプッチーニの歌劇「蝶々夫人」は、19日(日)に池袋の東京芸術劇場で千秋楽を迎えた。俳優、演出家としてフランスを中心に活躍する笈田ヨシによる、日本で最初のオペラ演出として注目を集めた舞台は各地で大盛況で迎えられ、昭和に時代を移した「蝶々夫人」はこの作品の上演史に残るものとなった。
上演に引き続いて、20日(月)には御茶ノ水駅からほど近い中央大学駿河台記念館にて中央大学人文科学研究所主催公開講演会「演出家・笈田ヨシ、《蝶々夫人》を語る」が開催された。

全公演を終えたばかりだがこの日も笈田は元気に(しかし壇上を指して「そういうところは苦手なんだよ」と少しとはにかみながら)登壇、「100%は無理だろうけど、成功したと言っていいのでは」と先日までの舞台を評した。そして刺激的な舞台が創られるその原点の、さらに前の部分から演技、演出について存分に語ってくれた。彼の著作に刺激を受けて演出を志し、イングリッシュ・ナショナル・オペラでの「天路歴程」の際に知己を得たという佐藤美晴も登場して興味深い話を披露、刺激的な舞台の直後ということもあって多くの聴衆が集まった会場で、時間いっぱいまで興味深い話が披露された。

中でも興味深く、かつ先日の舞台にも関係する部分を、以下にそれらの抜粋を”ノート”としてお届けしたい(もちろんこの”ノート”の文責は私のもの、誤認などあればご指摘いただければと思う)。彼の語る「蝶々夫人」論、演技・演出論をお読みいただき、触発されるものがあれば私としても喜ばしく思う。
笈田ヨシ
●「蝶々夫人」について

・概論
まず「プッチーニがしたかったことはなにか」を考えた。音楽と台本は示されているけれど、演出については定形はない。いわば”なんでもあり”の中で、テキスト(音楽)により近づきたいけれど、会場他の制約の中でどこまでできるか、というのがせめぎ合いとなる。その中で聴衆に伝えるための場、Spaceを作るのが演出だと考えている。なにか具体的な物を作るのではなく、見る側の想像を喚起するための場を作るのが仕事。

・時代設定について
カツラや衣装のコストを考えると、設定どおりの幕末から明治初期では難しい(巡演となればなおのこと)。作中で描かれる身請けも切腹も、ある時期以降の話としては説得的に示せないから昭和初期と設定した。

・第一幕について
あの”結婚式”はゴローが仕込んだ小芝居のようなもの、残念だけど心から蝶々さんを祝いに来る人はいない(だからボンゾの一喝で全員が手のひらを返して非難し出す)。ゴローの意図としてはまずピンカートンを喜ばせるため、そして蝶々さんを承知させるためのもの。蝶々さんの衣装が花魁風なのも「こっちのほうが外人受けする」とゴローが考えたから。

・第二幕の、主に衣装について
身奇麗にしている蝶々さんは皆さん見慣れているだろうから、では違うものは何だろうか?と考える。ピンカートンからは仕送りもなく、身の回りのものを売り食いしている状況だから、服だってどんどんなくなっているはず。そして当時の既婚者は赤い服なんて着ない、黒っぽい服や茶色で既婚者であることを示す服を自ら選ぶもの。でも普通の和装は避けたかった、歌手の皆さんが動きにくいし自分としては新派を思い出してしまうから(笑)。
「ある日私たちは見るでしょう」(ある晴れた日に)の前のスズキとの場面を歌の見せ場にしないようにした、誰でも知っているアリアの前だから。二幕以降について、蝶々さんには「歌っていない時間帯は後ろを向いているように」と言った、出ずっぱりだと顔(表情)が飽きられてしまうので。

・第三幕について
皆さんはお話を知っているから(あの暗転のあと)彼女は死を選んだに違いないと思われるのであって、自分としては他の可能性もあると考えてあの終わり方にした。彼女はあの後死んだかもしれないし、考えを変えて生き続けたかもしれない。
パリ版を基本にブレシャ版を部分的に採用したのは、蝶々さんとケイトとの対話を入れるため。できたら全篇をブレシャ版でもよかったが予算や時間には制約があるので(現行版はキレイになりすぎている、とも言及あり)。

・小道具について
星条旗の扱いについては多くの方が気づいてくれたけれど、それと対のものとして紙垂(主にスズキが祈っている)を配しているのはあまり触れられていない(蝶々さんが振り回しているのも)。
(第二幕での着物が印象的だった、と指摘されて)シャープレスとの対話の中で踊らせないといけない、ではどうしようかと考えたとき、「ヤマドリからの贈り物として着物を」と思いついた。そういう小道具が、登場人物を際立たせもするし、聴衆の側で物語を紡ぐ縁にもなる。

●演技、演出論について

・演技者として
自分の演技のルーツは子供の頃の忍者遊び、風呂敷をかぶるだけで親は「あれ~、どこに行ったの?」って受けてくれた。でもそのお決まりに親戚が乗ってくれなかったとき、そのお決まりはやめてしまった(笑)。自分は消えたいと思っているけど役者になった、どうして?と考えてみると、自分を示して「凄いでしょう」と演技するよりは、自分の所作、演技が消えることで聴衆の想像の中に何かを示すことができるといい、ということかと。(自分に)感心してもらうのではなく、感動させたいなと。

・演出について
演出家から「こうやってほしい」と言い過ぎると演技が義務になる、それは避けたい。役者自身の発見の積み重ねが舞台を活かして、「ふっくら」とした、人間が関係しあっている舞台ができあがると考えている。今回も、基本的に舞台上の所作や演技は歌手の皆さんが自分で考えた、というか発見したもの(上述の第二幕で蝶々さんがシャープレスと対話する場面で、一度だけ着物の裾を翻す芸者の所作をしてみせるのは中嶋彰子のアイディア)。

・「演劇的」な演出と評されて
その「演劇的」がよくわからない、むしろオペラっぽくないようにしたい、とは思う(笑)。アリアの間に腕を開閉するだけの舞台では自分も退屈してしまう。音楽や声だけではなく、視覚でも楽しませたい歌舞伎と同じでは?

・日本の伝統芸能と自分の演出について
自分が成長する頃、日本的なものは否定されていたけれど、自分としては好きで能楽を学んだり歌舞伎や文楽に親しんできたし、そこで学んだものは自分の演出にも反映されている。今回で言えば「ある日私たちは見るでしょう」の最後に蝶々さんが客席に背を向けるような表現は、日本の芸能でしかしないように思う。

ノートはここまで、とさせていただく。如何だろうか、この日の興味深いお話が一端ばかりも伝われば幸いである。

会の最後にはこの日司会を務めた、中央大学で准教授としてオペラ研究に批評に現場にと活躍する森岡実穂氏より現在の多様な「蝶々夫人」受容についても示された。オリエンタリズム的表現もかつてのような「明治のNippon」再現から変化している現状を紹介した上で、今回の舞台を世界的な潮流のなかでも存在感あるものとなった、としてこの会は終了した。

舞台の”復習”としてはこの上なく楽しいお話が聞けて、そして演技、演出について多くの示唆を持つこの会を経て今しみじみと思う、またあの舞台に触れることはできないだろうか、と。東京芸術劇場での最終日はNHKにより収録されたとのことなので、後日放送で楽しむことはできるのだけれど、再演によってあの舞台がさらに練り上げられて、再び聴衆の前で生きられることを強く期待したい。

(なお、この日の講演会もNHKが取材しており、収録された公演が放送される際には一部がご覧いただけるだろう。放送予定は各位NHKのサイトなどでご確認いただきたい。)
取材・文:千葉さとし reported by Satoshi Chiba / photo: Naoko Nagasawa


「演出家・笈田ヨシ、《蝶々夫人》を語る」
中央大学人文科学研究所 公開講演会(主催:研究チーム「芸術と批評」)

講師:笈田ヨシ(演出家・俳優) 
聞き手:森岡実穂(中央大学准教授)

日時:2月20日(月) 19時~20時50分
場所:中央大学駿河台記念館 285号教室

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