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【オペラ暦】—4月18日—序曲ばかりでなかなか上演されないスッペのオペレッタ

【4月18日】序曲ばかりでなかなか上演されないスッペのオペレッタ

⚫️1819年、数多くのオペレッタを作曲したスッペ(フランツ・フォン・-1895)が、スプリト(ユーゴ)で生まれています。『詩人と農夫』『軽騎兵』などの序曲は、小学校の音楽の時間でもよく聴いたものでした。
⚫️1936年、レスピーギ(オットリーノ・1879-)が、ローマで亡くなっています。レスピーギと言えば『ローマ三部作』で有名ですが、オペラも未完成のものも含め9曲も書いています。

[コラム]

彷徨の詩人バイロン卿と音楽
かつて明治の歌人与謝野鉄幹が、「バイロン、ハイネの熱なきも・・・」(人を恋うる歌)と歌ったほど、イギリスのロマン派の詩人ジョージ・ゴードン・バイロン卿は、日本の近代文学の創成期に影響をもたらした。男爵でもあった彼は、スキャンダラスな噂によってイギリスの上流社会から疎外され、そのために母国を離れざるを得なくなり、1816年4月、長い流浪の旅に出る。28歳の時である。
イギリスを出ると、ベルギー、ドイツ、スイスを経てイタリアに入り、11月にヴェネツィアに到着した。そして1819年6月にラヴェンナに向かうまでの2年7ヶ月をこの地で過ごすことになる。そして、この詩人のもっとも充実した時期が、このヴェネツィア滞在の2年半であった。ここで彼は共和国崩壊後の頽廃したヴェネツィアの香りを「滅びの美」として賛美し、哀惜したのであった。
彼がヴェネツィアに滞在した前後の創作活動は、ほぼ彼の代表作を網羅しているほど充実したものだった。『コリントの包囲』(1816)、『シヨンの囚人』(1816)、『マンフレッド』(1817)、『ベッポ』(1818)、そして『チャイルド・ハロルドの巡礼第四歌』(1818)などである。また『ドン・ジュアン』(1819〜)もこの時期から書き始めている。
ヴェネツィアを離れた後も、同地を題材とした『マリーノ・ファリエーロ』(1821)、『二人のフォスカリ』(1821)の2本の戯曲を発表している。前者はドニゼッティ、後者はヴェルディによっていずれもオペラ化された。
さらに、バイロンを一躍有名にした長編詩が『チャイルド・ハロルドの巡礼』(1812-18)であったが、中でもイタリアを歌い上げた「第四歌」は、後の芸術家たちに圧巻の影響力をもたらした。美術においては、イギリスの画家J.M.W.ターナー(1775-1851)が1819年にヴェネツィアを訪れて描いた『チャイルド・ハロルドの巡礼—イタリア』(1832)があり、また音楽ではベルリオーズの管弦楽曲『イタリアのハロルド』(1834)が、何よりそれを物語っている。
この他にも、ドニゼッティが歌劇『パリジーナ』(1833)、ヴェルディも歌劇『海賊』(1848)を作曲、アダンはバレエ『海賊』(1856)を作曲し、シューマンもまた劇音楽『マンフレッド』(1848〜9)を、同じ題材でチャイコフスキーが交響曲『マンフレッド』(1855)を作曲するなど、バイロンの作品をオペラや楽曲にした例は枚挙にいとまがない。


新井 巌(あらい・いわお)
iwao
1943年、東京に生まれる。レコード会社を経て広告界に転じ、コピーライターとして活躍。東京コピーライターズクラブ会員。中学生の頃からクラシック音楽にひたり、NHKイタリア歌劇団の『アンドレア・シェニエ』日本初演を観劇したことが自慢の種。フェニーチェ劇場焼失の際には、再建募金友の会を主宰し、現在は「フェニーチェ劇場友の会」代表。日比谷図書文化館で「オペラ塾」を定期的に開催している。オペラ公演プログラムの編集にも携わっている。

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