オペラ・エクスプレス

The opera of today from Tokyo, the hottest opera city in the world

藤木大地(カウンターテナー)  CD「死んだ男の残したものは」発売記念 特別インタビュー

藤木大地(カウンターテナー) CD「死んだ男の残したものは」発売記念 特別インタビュー

Q:初めてのソロCD発売おめでとうございます。藤木さんの音楽性と感性がくっきりと表現されている素晴らしいアルバムだと思いました。

A:ありがとうございます。

Q:内容もユニークで、共演している方々も素晴らしいですけれども、CDのことをお聞きする前に、今年、日本人のカウンターテナーとして初めてウィーン国立歌劇場にデビューしたお話も含めて藤木さんのこれまでのキャリアについてまず質問させて下さい。


カウンターテナーの定義とは?

Q:藤木さんは〈カウンターテナー〉です。カウンターテナーというのはそもそもどのような声の種類なんでしょうか?

A:自分の持っている定義としては、カウンターテナーは男性が裏声を使って、女性のアルトからメッゾソプラノの音域を歌う声です。女声と同じ音域で歌うのですが、女声を模倣しているわけではないんです。「女性のような声を出す」と書かれることもありますがニュアンスが違う。学校公演に行った時など生徒さんたちは合唱をやっていることが多いので、「ソプラノ、アルト、テノール、バスがいるよね。カウンターテナーは男だけれど、その中のアルトの声で歌うんだよ」という風に説明すると、クリアに理解出来るみたいです。男性の身体で男性の声帯なんだけれども、楽器の使い方を少し変えて女性の音域を歌う、と説明しています。

Q:裏声、つまりファルセットというと、柔らかい発声というイメージがあります。でも藤木さんの声はピーンと通る声ですよね。テノールとしての地声の発声と上の方の音は発声が違うんですか?

A:いえ、それは絶対的に同じです。日本語では「裏声」、イタリア語だと「ファルセット」になりますが、基本的に〈表〉か〈裏〉かと考えれば分かりやすいんです。自分は技術的にはそう思って使い分けています。僕は元々テノール歌手でしたが、息の吸い方、身体の支え方、身体の開き方、口の中にスペースを作るやり方などは全部一緒です。大きな場所で隅々まで届くように使う、という意味でも同じです。楽器である声が〈表〉か〈裏〉か、というだけの違いですね。

Q:カウンターテナーが一般的に知られるようになったのは20世紀ですよね?

A:名称というか、今ある概念としてはおそらくベンジャミン・ブリテン以降だと思います。アルフレッド・デラー(1912-1979)というカウンターテナーがいてブリテンは彼のために《夏の夜の夢》のオベロン役を書きました。カウンターテナーの歴史を細かく言えばイギリスの聖歌隊に存在したりはしていたんでしょうけれども、一般的に広く知られるようになったのはデラーの頃からだと思います。

Q:ブリテン作曲の《夏の夜の夢》といえばまさに藤木さんが2016年に兵庫県立芸術文化センターでオベロン役を歌われましたね。カウンターテナーになる方は藤木さんのようにテノールなど他の声種から転向する場合が多いんですか?

A:そうですね。僕はいくつかの例しか知りませんが、ウィーンで出会ったカウンターテナーの中には、子供の頃からウィーン少年合唱団に所属していて、声変わりをした時にテノールやバスに寄り道することなく、そのままカウンターテナーになった、という人もいました。一般的には、声帯の作りとしてはバスとかバリトンの方がカウンターテナーの裏声が出しやすいと言われています。僕のようにテノールから転向したのはちょっと珍しがられます。

Q:カウンターテナーの需要は以前と比べると多くなっていると思いますか?

A:ヨーロッパにおいては確かにそうですね。どの劇場もバロック・オペラを上演するようになってきていて、バロックに特化した音楽祭もいくつかありますから。僕自身、カウンターテナーに変わったのが7年前でその時からマーケットを見始めたのでそれ以前の事は分からないですけれども。当時YouTubeなどで検索し、フィリップ・ジャルスキーやアンドレアス・ショルなどの動画をたくさん見ました。スター歌手も多いです。ウィーンにいましたからアン・デア・ウィーン劇場や楽友協会でバロックの音楽をたくさん聴くことが出来ましたし。来年、ウィーン国立歌劇場がヘンデルの《アリオダンテ》を初めて上演するんです。ウィリアム・クリスティ指揮でレザール・フロリサンが演奏します。僕はクリストフ・デュモーが歌うポリネッソ役のカバー歌手を務めます。

ウィーン国立歌劇場での初めての仕事もやはりトーマス・アデス《テンペスト》という現代オペラのカバー歌手でした。そして今年4月にはアリベルト・ライマンの《メデア》でヘロルド役に出演しました。それが僕のウィーン国立歌劇場へのデビューです。


カウンターテナーへの華麗なる転身

Q:その時のニュース番組を拝見しましたが、その中で藤木さんは、カウンターテナーになったきっかけを話していました。ウィーンに留学中に風邪をひいてしまい、テノールの声で練習が出来なくなったので裏声で歌ってみたのが始まりだと。藤木さんの経歴を拝見していると、東京藝大卒業、新国立劇場研修所で研鑽を積み、その後は奨学金でボローニャやウィーンに留学、と普通に言えばオペラ歌手のエリート・コースを歩んで来られたように見えます。よく声の種類を変える勇気があったな、と思うんですが?

A:僕はデビューが早かったんです。新国立劇場で2003年に《フィガロの結婚》のドン・クルツィオ役を歌いました。23歳の時です。あの大舞台で、メイン・キャストは外国人歌手で、国際的な仕事をそこで初めて体験しました。僕はそこでメジャーリーガーに憧れたんです。それまでは東京藝大の《メサイア》に出演した経験くらいしかなくて、最初からメジャーリーガーと同じ舞台に乗ってしまったんです。大学野球からメジャーリーグの舞台(笑)。それが楽しすぎたんです。この次元を目指すぞ!と思いました。

そして2005年には文化庁の研修員としてボローニャに一年間留学します。研修費を頂いてヨーロッパにいる間に何とかしなくては、と思いました。イタリア語は出来たので、ボローニャにいる間にドイツ語を勉強してドイツ各地の歌劇場に連絡し、色々な所のオーディションを受け…でも全部ダメだったんですよ。

Q:普通、イタリアに留学したらイタリア語の勉強、歌のレッスンなどが中心になるのかと思いましたが、その期間中にヨーロッパで仕事を得ようとしたところが凄いですね。

A:お金を頂いて留学している期間が一年間しかありませんでしたし、オペラは上演シーズンが決まっていますからとにかく時間が無かった。しかも結果としては全部ダメだったんです。限られた期間、限られたお金では僕はメジャーリーガーにはなれなかった。それで日本に帰って来たのですが、自分の求めていた次元で仕事が出来ないのなら、もうテノール歌手はやめてしまおうかと思ったんです。その時は26、7歳で、まだ他の仕事を見つけるのにも間に合うかなと。

帰国してから留学資金の残りを使ってアメリカに3週間、貧乏旅行に行きました。ヨーロッパはオーディションを受けるために結構、色々な国を回ったけれど、アメリカは見たことが無かったので行ってみたんです。2週間ニューヨークにいて、夜行バスでナイアガラの滝を見に行ったりもしました。METには立ち見席で通い、ブロードウェイも行きました。そこで思ったのは、ヨーロッパで生まれたオペラはアメリカにも輸入されたはずだということ。だから日本と同じ立場ですよね?それが毎日こんな豪華な公演が繰り広げられていて、ブロードウェイの劇場はどこも満員で、なぜこんなに人気なんだろう?って。観光客や若い人が自分でチケットを買って詰めかけている。日本にも音楽文化を波及させて、ビジネスとして成功させるのは自分が人生をかけてやる意味があるのではないか、と思って帰国しました。

帰国後、東京のオペラの森で《タンホイザー》の合唱に参加しました。この《タンホイザー》は国立パリ・オペラ座とバルセロナ・リセウ劇場との共同制作、そして翌年の《エフゲニー・オネーギン》はウィーン国立歌劇場との共同制作だったんですが、日本で先に初日を開け、それがヨーロッパでも上演されるということをやっていたんです。これはカッコいいなと思って。プロデューサーに「僕もこういう仕事に興味があるので、関わらせてほしい」とお願いして弟子入りをしました。そして小澤征爾さん指揮のプロダクションで2年間くらいプロデューサーのアシスタントをしたんです。そこでオペラの裏方の仕事を見ることが出来ました。リハ―サルの予定表を作ったり、稽古場に一番早く行って鍵を開けてコーヒーを淹れたり。国際的なオペラのプロダクションがどういう風に出来ているのかを基礎から知ることが出来た。

その後です。ロームミュージックファンデーションの奨学生としてもう一度ヨーロッパに行くことが可能になりました。ボローニャ留学中に訪れたウィーンが自分に合っているように思ったので行き先はウィーンに。そして、今度は歌の勉強よりもオペラのビジネスを学ぼうと思って、ウィーン国立音楽大学大学院に文化マネージメント科があるのを見つけて、そこを受験して受かったので行くことに。それが2008年でした。

Q:テノールからカウンターテナーに変えたのが2010年のことでしたね?

A:そうです。歌の勉強は続けていました。そして2010年の夏に風邪をひいて裏声で歌ったことによりカウンターテナーという可能性を見出したわけですが、この年の12月まではテノールとしての仕事が入っていたので変えられなかったんです。でもその期間に色々な人の意見を聞きました。そしてカウンターテナーならやはり英国だろう、ということでジェイムズ・ボウマンという往年の名歌手に会いに行き、彼のアドヴァイスを受けマイケル・チャンスに師事したんです。

Q:藤木さんは思い立ってから行動に移すのがとにかく早いですね(笑)。

A:その時はもう30歳になっていましたから、早く上手くなるしか方法がなかったんです(笑)。でも、現代は幸いなことにインターネットのお陰で居ながらにして世界の様々な歌手を聴くことが出来る。そこで思ったのは、パヴァロッティやファン・ディエゴ・フローレスを聴いた時と比べて、カウンターテナーの名歌手たちを聴いた時にはそれほどの距離は感じなかった。これなら自分も近づけるかな、と思ったんです。仕事があるかは分からなかった。でも、上手くなれるとは思ったんですね。

Q:そこからカウンターテナーになるまでの勉強はどのような内容だったんでしょうか?

A:その時に自分が持っていたイメージとしては、カウンターテナーはカウンターテナーに習わないといけないと思っていました。レパートリーの事もあるし、声の出し方も違うだろう、それに流派のようなものもあるのかもと。でもとにかくコンクールに出るのには年齢制限という意味で時間が無かったので、ウィーンに一人だけいたカウンターテナーの先生にもプライヴェートでついて、バロック・オペラのアリア、すぐにコンクールで歌えるヘンデルのアリア等を勉強しました。曲を勉強しながら発声についても「ここはああだ、こうだ」って言われながら。

Q:直接曲をやりながら、しかもコンクールに出るような曲を最初から歌ったんですね?

A:結局、コンクールが僕にとっての唯一の本番だったんです。歌手は本番がないと上手くならないと思うのですが、そういう意味でコンクールが僕の一番のレッスンでした。学校に通っていたわけではないので発表会もありませんでしたから。

Q:テノールからカウンターテナーになって新しく習得したテクニックにはどのようなものがありますか?

A:二つあります。一つはコロラトゥーラ、つまり早いパッセージをどう歌うか。もう一つは、カウンターテナーは高音から中音域、具体的に言うと五線の下のド(一点ハ)かシ(その下のロ)あたりが声をチェンジさせる音になるんですね。そこをどうスムーズに地声に変えるか。逆に言うと、すごく低い音から高い音に移行する場合、裏声の音域に入る所のつなぎ目をどのようにスムーズにして自然に聴こえるようにするか、の二点なんです。それがカウンターテナーになって新しく学んだことです。


ヨーロッパの歌劇場にデビュー

Q:そしてカウンターテナーになった藤木さんはヨーロッパでオペラ・デビューを果たします。2013年5月ボローニャ歌劇場《クレーリアの勝利》マンニオ役でした。ボローニャ歌劇場に出演するまでの経緯は?

A:2011年にローマ国際宗教音楽コンクールに参加したんです。それはファイナルまでいったんですが、その授賞式の時に僕の歌を褒めてくれたのがイェージのペルゴレージ音楽祭の芸術監督でした。「何かあればデビューさせたい」と言ってくれて。だから何かしてくれるかもと思い、ダメもとで彼にメールをしたんです。そうしたらイェージの音楽祭で僕を入れて三人のカウンターテナーでコンサートをやろうという話になりました。そのリハーサルのためにイタリアに戻ることになり、せっかくイタリアに行くのならどこかの劇場でオーディションを受けられないかな?と思い、そのイェージの芸術監督に問い合わせたらヴェネツィアのフェニーチェ歌劇場でオーディションを受けるように手配してくれたんです。ところがイェージ近郊の町でリハーサルが終わって、明日はヴェネツィアだというところになって「ダイチごめん、明日のフェニーチェのオーディションはなくなった。でも代わりにボローニャ歌劇場入れておいたから」という連絡が入って。

Q:ただキャンセルになっただけでなくて良かったですね!

A:そうなんです。しかもその日の宿泊も留学時代に知り合ったボローニャの友人の家だったのでラッキーでした。それで翌日ボローニャ歌劇場に行きました。芸術部門の方がお二人、「誰だか知らないけれど、日本人の歌手を聴けって言われたから」という感じで、劇場のロビーでオーディションをしてくれて。そこでブリテンの《夏の夜の夢》のオベロンとロッシーニ《タンクレディ》のアリアを歌いました。そうしたら「無理矢理飛び込んで来た割には歌えるかな」みたいなムードになって。でも「うちの劇場では君が出られるような演目は今のところ上演予定はない。何かあったら連絡するよ」と言われて別れたんです。

それが2012年7月で、その後コンクールを受けるために帰国した所にボローニャ歌劇場からメールが来ました。250年前にボローニャ歌劇場が開場したときに初演したグルックの《クレーリアの勝利》の記念上演への出演依頼だったんです。ヨーロッパでの初めての契約が、自分が留学していたボローニャだったというのは本当に夢のような話でした。留学生時代にボローニャ歌劇場の天井桟敷に通ってフローレスとエヴァ・メイの《連隊の娘》など、素晴らしい公演を聴いていましたから。ボローニャでは結局《クレーリアの勝利》の次の演目、バッティステッリ作曲の現代オペラ《イタリア式離婚狂想曲》にも出演して、計12公演歌いました。

Q:素晴らしい経験でしたね。ウィーン国立歌劇場との仕事はどのようなきっかけで生まれたんですか?

A:ボローニャ歌劇場との契約が決まった2012年は、国際ハンス・ガボア・ベルヴェデーレ・声楽コンクールで賞をもらった年でした。そのことによりオーディションに呼んでくれる劇場も増えて来たんです。自分としてはやっぱりウィーン国立歌劇場に聴いてほしいと思って連絡をし、オーディションの約束を取り付けました。2013年の冬です。まずはリハーサル室で声を聴いてくれることになり、ボローニャと同じブリテンの《夏の夜の夢》オベロン役を歌ったらやはりとても手応えが良くて。オーディションを本当にたくさん受けているので、聴く人の表情が変わるのが良く解るんです。でもボローニャ歌劇場と同じく「とても良かったけれど、今の所、君の役はない。でも何かあったら連絡します」と言われ、「聴いてくれてどうもありがとう」と帰ってきました。そうしたら翌月、3月頃にメールが来て2015年にトーマス・アデスの《テンペスト》を上演する。キャストはもう決まっているけれどカバー歌手として契約したい、という連絡があったんです。興味があるなら《テンペスト》の楽譜を送るので、それを勉強してオーディションを受けに来て下さい、今度はマイヤー総裁があなたを聴きますと。ボローニャ歌劇場の出演予定が4月から6月までだったので、その後に行くことにして再びオーディションを受けました。

Q:今度はドミニク・マイヤー総裁が聴いてくれることになったんですね?

A:前回はリハーサル室でしたが、今度は舞台上で歌うオーディションでした。これはちゃんと用意して行ったら仕事をくれるだろうと思ったのでしっかり勉強して行きました。オーディションは午後一時だったんですが、その日の午前中にドミンゴ指揮、ピョートル・ベチャワ主演の《ロミオとジュリエット》の舞台稽古があったんです。リハーサルが終わったベチャワが通りかかり、「頑張れよ」って親指を立てて応援してくれて。METで《リゴレット》を聴いて大好きな歌手だったのですごく嬉しかったです。

そしてステージに出て歌いました。《テンペスト》から2、3曲歌ったんですが、一曲目を歌い終わった時に、客席に目をやると「あ、あそこにドミンゴがいる…!」って。ドミンゴがいても歌いましたけれど。上がってる場合じゃないですし(笑)。でも僕の世代は中学生の時くらいに三大テノールのスタジアム・コンサートのビデオが大ヒットしていた時代ですから、そのドミンゴが客席で聴いてくれた。それだけでもいいや、と思って帰ったらその日の夜にオファーが届いたんです。

Q:凄いですね。それが次のオペラ出演に結びついたんですか?

A:そう簡単には行かなかったです。《テンペスト》は2シーズン続けて上演したので、2015年にも僕はカバー歌手を務めたんですが、その時に朝の稽古の後で、またステージで誰かのオーディションがありました。ところがそれがカウンターテナーだったんです。僕は思わずジェラシーを感じて(笑)、歌劇場スタッフに「何のオーディションなの?」って聞いたら、ライマンの《メデア》だと。「あら!」と思いました。僕は《メデア》は歌った事がないけれど、ライマンの《リア》は2013年にやっていたので。滞在期間はあと一週間くらいだったんですが、歌劇場側に交渉してギリギリに日程をとって聴いてもらえることになりました。

Q:かならずご自分からアクションを起こしていますね。偉いなぁ。

A:二年続けて《テンペスト》のカバー歌手をやり、いつも舞台のすぐ横の歌手用の桟敷からこのオペラを観ていたんです。そこで思うわけですよ。「僕は天井桟敷からここまで近づけたのに、なんでこのオーケストラ・ピットを飛び越えて舞台に立てないんだろう?」と。毎公演そう思って観ていたから、もう命をかけてオーディションに臨みました。マイヤー総裁もまた聴いてくれて。ところが、自分ではフィードバックも良かったと思って「いつオファーが来るかな?」と待てど暮らせど連絡が来ない。

Q:ダメだったんですか?

A:一月くらいたってメールしました。「あれどうなりました?」って。そうしたら「歌はすごく良かったんだけれど、マイヤー総裁がダイチの声量がうちの歌劇場に充分大きいかどうか確信を持てないと言っている。キャストはまだ決まっていない」と返事が。僕がオーディションで歌ったのはライマンの《リア》だったんですが、あれは1978年にフィッシャー=ディスカウをリア役に想定して書かれたオペラで、全体的に音が低いんです。《メデア》の作風とは全然違うし僕にとっても音域が違う。それを説明して「俺に一ヶ月くれ、いや、二週間でもいい」と書きました。《メデア》の役でもう一度聴いてほしいって。「分かった、聴く」という返事が来て2016年の1月にもう一度聴いてもらえることになり、2週間本気で《メデア》の自分のパートを勉強しました。本当に難しいんですけれども、ピアニストの友人にメトロノームと一緒に弾いた音源を作ってもらってそれで音取りしながら。

そしてウィーンに戻って《メデア》を聴いてもらいました。出番は15分くらいの役なんですが、その一曲を歌って。そうしたら歌い終わったところで、マイヤー総裁が「お前、通ったぞ!」って客席から叫んでくれて。もう泣きました。その滞在中に契約書を出してもらい、サインして帰ってきました。

Q:凄いですね。お話を伺っているだけで自分が役をもらったみたいに嬉しいです(笑)。それで本番の舞台はいかがでしたか?

A:そういう経緯があってやっと立てた舞台だったけれども、でも勿論、本番の舞台では冷静でした。やはり難しい作品ですし、指揮はミヒャエル・ボーダーさんでしたが、とにかく彼やプロンプターを見ていないと合わない。浸っている暇はありませんでした。ズレたら共演者のみんなに迷惑がかかりますし。

Q:ライマン《メデア》のヘロルドは、本当に難しそうですが、とっても魅力的な役でもありますね。

A:そうですね。リハーサルは10日間しかなくて、それでも難しい作品なので再演にしては長かったんです。ゲネプロは無いので舞台の上でリハーサルをしたのは2回だけでした。その期間に本番までにやるべきことを計算しなくてはいけない。例えば舞台裏で歌い始めてそのままステージに出て行くんですが、助演の兵士達がいて指揮のモニターTVが見えない、などの問題を解決したり。ですから本番が終わるまで緊張している暇もなかった。それでも開演前にマイヤー総裁が歌手達の楽屋を回る時に「今日がデビューだな」と握手して下さり、終演後もカーテンコールが終って舞台裏に来て「ダイチ、スーパーデビューだったな、おめでとう!」と言ってくれました。それで「ああ、成功したんだ」って。お客さんの拍手も大きかったし、僕も次に向けて自信がつきました。

Q:現地のレビューも良い評価が多かったようですね。私もwebでいくつか拝見しましたが、ウィーン国立歌劇場で良い結果を出せば、世界中の人が読める批評がすぐ出るんだな、と関心しました。

A:だから怖いです。逆もあるわけですから。毎回が勝負だし、それが歌手人生に関わって来るんです。


デビュー・アルバム『死んだ男の残したものは』で伝えたかったこと

Q:日本でも藤木さんへの注目は高まって来た所だと思います。オペラでの華々しい活動と平行して、リサイタルも取り組んでいらっしゃって、曲目もユニークなものが多いようですね。CDを出す、録音を残すということへのご自分の中での位置づけは?

A:実は、基本的には僕は録音には向いていないと思っているんです。コンクールを受けていた時代に、実際聴いてもらうと良い結果につながることが多いのに、その前の録音審査で落ちることが多くて。自分の良さは録音では伝わりにくいのでは?と思っていました。でもカウンターテナーの歌手としての寿命は、他の歌手よりも短いという傾向があるんです。全盛期は50歳くらいまで、ということが多いようです。僕自身は今、自分が表現したい音楽が出来る声とテクニックが熟してきて凄く楽しいところだから、声は良い時に残したいと思ったんです。

それから、ウィーン国立歌劇場でのデビューが決まっていたので、それに合わせて出したいという事情もありました。あの劇場は、出演歌手のCDを劇場内のアルカディアというショップに置いてくれるんです。僕は日本人でカウンターテナーだからいかにもマイナーな存在。ウィーンの観客が「誰なんだろう?」と思った時にCDが売っていれば「ああ、日本から来たのか。このCDのアーティストなんだな」って分かるじゃないですか。だからそれに間に合うように、という気持ちがありました。日本の歌を入れれば日本の文化も紹介出来る、とも思いましたし。

Q:このCDは日本の歌が多く収録されていますし、ブックレットの英語の解説が充実しているので外国で販売するのに適していますね。それ以外は英語の歌で、一曲目はヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」ですからイタリア語ですが。これはカウンターテナーの伝統ある英国に捧げたCDでもあるんでしょうか?

A:そうですね…。このCDは僕が今までやって来たリサイタルの延長なんです。ブリテン編曲のアイルランドやスコットランドの民謡はコンサートでよく歌う曲です。それに、半分以上が日本の歌だとすると、その残りの半分にシューベルトやシューマンを入れるのは少し違和感がありました。「ダニー・ボーイ」にしても「グリーン・スリーヴス」にしても皆が良く知っていて日本人の我々にも心の思い出を引き起こすもの、として組み込みました。

Q:このブリテン編曲の3曲は民謡とは思えない伴奏になっていますね。

A:やはりアルバムを一枚作るのにイージーリスニングにはしたくなかったんです。アカデミックにやりたかった。ブリテン編曲の、しかもギター伴奏のフォークソングはほとんど録音されていないと思いますので、それをやろうと。もちろん福田進一さんという素晴らしいギタリストがいて下さったからこそなんですけれども。リサイタルではパーセルの曲もブリテン編曲版で歌うことがあります。


素晴らしい共演者たちと作り上げたもの

Q:おっしゃる通り、このCDは共演者が素晴らしいのも特徴だと思いました。ギターは福田進一さんと大萩康司さん。

A:大萩さんは出身地が宮﨑で同郷なんです。そのつながりでもう7、8年共演しています。福田さんは大萩さんの師匠なんです。福田さんと共演したのは昨年の夏でした。

Q:ギターといえば、武満徹の2曲「小さな空」と「死んだ男の残したものは」もギター編曲が素晴らしいです。

A:荘村清志さんの編曲です。昨年、白寿ホールで武満さんの没後20年の記念コンサートで荘村さんとご一緒した時に歌った時の編曲です。その後、テレビの『題名のない音楽会』で「死んだ男の残したものは」を歌ったのがかなり話題になり、タイトルはそれで行こう、と決めました。荘村さんの編曲に関しては、ギター界は皆さんとても仲が良くて、大萩さんが弾くのですが荘村さんのアレンジを使わせて下さい、とお願いしたら快諾いただけました。

Q:『題名のない音楽会』は集中力のある歌唱でしたね。心にストレートに入って来る歌だと思いました。

A:それは曲の力だと思います。その時に作詞の谷川俊太郎さんも出演なさっていたのですが、谷川さんがこの曲を聴いた後で「ありがとう」と言って下さって。「これからも自由に歌って下さい」って。僕はあの選曲をした理由というのは、あの曲は1965年ベトナム戦争の時に書かれた曲で、僕たちは世代的にもそれを知らないけれども、でも歌詞はやはり刺さるんです。普遍的なテーマですよね。結局、世の中は変わっていない。それに皆も共感するから悲しくなる。僕も歌っていて悲しくなる。でも、だからこそもっと変わらなければいけない世の中に、この曲を届ける使命があるんじゃないかと思ったんです。本当はデビューCDのタイトルとしては「死」という字があると暗いんですけれど、やはりどうしても伝えるべきメッセージだと。それだけにジャケットは明るくしましたが。

Q:このCDを聴いて、藤木さんの歌における言葉は多彩なニュアンスを持っていると思いました。情景を絵画的にイメージしたりすることはありますか?

A:歌って、もちろんいい声で歌った方がいいのかも知れないけれど、やはり言葉が伝わらないと意味が無いと僕は思っています。何語の歌でもそうなんですけれども。発音がどうとかいうよりも言葉に命を与える、というか。例えば「光」って言った時に、そこで光が見えないといけないし、「ねじれた」って言った時にそれが想像出来ないといけない。それはただ音を歌っているだけでは伝わらないですよね。

Q:CDのライナーノーツは武満徹さんの娘の武満眞樹さんの、歌における言葉とメロディーの関係についての文章ですね。とてもいい内容だと思いました。

A:眞樹さんはさすがです。執筆陣も、共演者も、このCDは本当に素晴らしい方々が関わって下さいました。

Q:普段、藤木さんが共演している方々がこのCDでも演奏している。

A:このCDの演奏がハープ、ギター、ピアノなどバラエティに富んでいるのは、ピアノだけでやりたくなかったんです。普段のリサイタル、演奏活動で色々な方とご一緒しているのに、それをピアノ一本にするのは残念だと思ったので。例えば「グリーンスリーヴス」「ダニー・ボーイ」はハープがいい、と思って西山まりえさんにお願いしました。西山さんとは王子ホールで一回だけ共演したことがあるんですが、彼女のハープは本当に自由な楽器というか、演奏は即興的な部分が大きいんです。だから演奏はテイクごとに違っていたはずですよ(笑)。

Q:ピアノの松本和将さんとは長く共演されていますね?

A:松本さんが一番長いおつきあいだと思います。同級生なんです。大学で知り合ったんですが、当時松本さんは18歳で日本音楽コンクールに優勝して注目されていたのに、門下生の発表会の伴奏をしてくれたり。あと僕の地元の宮﨑で県人会のコンサートがあったとき、当時学生なので僕にとってはそういう機会が年に一度の晴れ舞台だったのですが、その演奏会で弾くためにも来てくれました。彼とは最近「詩人の恋」を一緒にやりましたし、「魔王」もやってくれました。今回のアルバムは日本歌曲だけでしたから彼の全てを発揮出来ずにもったいなかったとは思うんですが、でもやはり、例えば「お菓子と娘」の前奏なんて、誰も出さないような音を出しやがりました(笑)。編集を聴いていて、この輝きを出せるのは彼だけかも、とびっくりしました。

Q:「お菓子と娘」は他の曲と雰囲気が違って面白かったです。まさに曲と曲の間にお菓子を食べたような気持ちになりました。

A:これは僕の師匠、テノールの鈴木寛一先生が良く歌う曲なんです。だからやはりやりたいな、と。日本歌曲の伝統を守ってきた方の指導を受けたいと思ったので、CDを作る時にもレッスンに行きました。

Q:「ダニー・ボーイ」の前半が英語、後半が日本語というのも面白かったです。移行がスムーズだし、しかも日本語の力は凄いな、と思いました。コンサートではこのやり方で歌っているんですか?

A:そうです。コンサートで前半を英語で歌って、後半を日本語で歌い始めると途端に、客席でみんなの目の色が変わるのが分かるんです。英国歌曲から日本語の曲に行く橋渡しをしなくてはいけなかったので、普段から歌っているこの曲がそこにはまるかな?と思って。

Q:そして、加藤昌則さんは「てがみ」を藤木さんのために書き下ろしていますね。

A:加藤さんは去年知り合ったんです。何だか気が合ってしまって、去年だけでも5回くらい共演しています。加藤さんの歌曲は「こもりうた」を入れたいなと思って、やっぱりご本人のピアノでやりたいなと思って「弾いてくれる?」と頼んだら「アルバム作るなら曲を書くよ」って言われて。それで出来たのが「てがみ」です。

Q:とっても素敵な曲ですね、これ。最後の方なんて「ルルルー、トゥトゥワ、トゥーワ、トゥ」とか可愛いです。ピアノも斬新ですし。

A:これは一応、カウンターテナーを意識したらしいです。というか僕を、かな。やっぱりライマンにしてもアデスにしても、例えば《テンペスト》はアデス自身が指揮もしていましたが、作曲者自身と会える、話せる、というのは本当に貴重なことなんです。加藤さんもすごくいい。年上の方に失礼ですが、才能を感じます。生きている作曲家と仕事をするということは音楽史を作ることだし、僕という歌手がいたから出来た曲があり、それを初演でどう演奏するかを話し合うというのは、ヘンデルやモーツァルトだって日常生活でやっていた事ですよね。彼らのことは学校で勉強したから歴史みたいに感じてしまうけれど、今、加藤さんとやっている作業を過去の曲にもあてはめて、自分なりに歌う作業をしていると、やっぱり演奏が変わるんです。自分のために書いてもらった作品は他にも何作かあるんですけれども、それは僕がカウンターテナーという声種になったからこそ現代の作曲家との付き合いも増えたということで、それはすごく良かったな、と思う部分です。


道を切り開いていく歌手人生

Q:長時間のインタビュー、本当にありがとうございました。最後に、これから先のご自分の歌手人生、今こういうものが見えていて、これからこういうことをやっていきたい!ということがあれば教えて下さい。

A:カウンターテナーになったばかりの頃、日本でも歌いたかったから声楽コンクールをいくつか受けたんですが、まずカウンターテナーという声の種類すらなかったんです。電話しても「募集要項に書いていないので、カウンターテナーの方は受けられません」って。それをもう一度電話して「アルトのパートを歌うこともあるから、男性アルトでいいですか?」って言って受けさせてもらえるようになったくらいです。三つ目に受けた日本音楽コンクールでやっと結果を出す事が出来て、それが話題にもなったので少しずつ仕事につながって行きましたが、自分としては本当に道が無い所をやってきた感じがありました。それから5年が経ったんですけれども、カウンターテナーの僕が新聞に載る時に(女声の音域を…)という説明が段々減って来たんです。だから特殊なものではなくなってきたことを感じています。

カウンターテナーが向いているオペラは、やはりバロック・オペラや現代オペラです。先日も子供のための《カルメン》ハイライトを観て、子供が音楽に触れる入り口になるああいう公演はすごく良いなと思ったけれど、僕はこの声を後10年間使って、大人への入り口を作っていけたら、と思うんです。ヨーロッパでカウンターテナーのフィリップ・ジャルスキーやフランコ・ファジョーリのようなスター歌手がいるから、歌劇場は彼がいるならこの演目を、と企画しますよね。僕も「藤木大地がいるから《ジュリアス・シーザー》をやろう、《ロデリンダ》をやってみよう」となってほしいし、そのためには地味に、真摯に、誠実に、真面目に歌っていくしかないですよね。それがバロック・オペラが日本でももっと上演されることにつながれば素晴らしいと思うんです。

Q:藤木さんは、何というか本当にパイオニアというか、道を切り開いて行く人ですよね。そうせざるを得なかったというか?

A:そうなんです。自分が必要に迫られていたので。そうでなければ本当に仕事が無かったですから。でもCDを出しても感じることですけれども、本当に多くの人に支えられて出来たことです。自分が裏方の仕事をしてみて分かったけれど、オペラは舞台の上にいる人だけのものではない、みんなのものですから。

Q:日本でも世界でもスーパースターになってほしいです。

A:いえいえ、若くもないしイケメンでもないからそれは無理なんですけれど(笑)。

Q:イケメンですよ。それにまだ全然お若いです(笑)。私たちも応援しています。今日は本当にありがとうございました。

インタビュー・文:井内美香  / photo: Naoko Nagasawa

藤木 大地
2017年4月、オペラの殿堂・ウィーン国立歌劇場に鮮烈にデビュー。
アリベルト・ライマンがウィーン国立歌劇場のために作曲し、2010年に世界初演された「メデア」のヘロルド役(M.ボーダー指揮)での殿堂デビューは、「大きな発見はカウンターテナーの藤木大地だった。あの猛烈なコロラトゥーラを彼のような最上の形で表現できる歌手は多くはない」(Der Neue Merker)、「藤木大地はそのカウンターテナーで、説得力のある印象を残した」(Oper in Wien)、「藤木大地は芯のあるクリーミーな声のクオリティと、眩いばかりの音のスピンの力で、モダンオペラの化身となった。」(Parterre)、「藤木大地は難解なヘロルド役をわがものとしていた」(Salzburger Nachrichten)など、現地メディアからセンセーショナルに絶賛されるとともに、音楽の都・ウィーンの聴衆からも熱狂的に迎えられただけでなく、日本人カウンターテナーとして史上初めての快挙として、日本国内でも大きな話題となっている。(AMATI 藤木大地プロフィールより一部転載)

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)

CAPTCHA


COMMENT ON FACEBOOK

Return Top