オペラ・エクスプレス

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【オペラ暦】—7月31日—バイロイトで逝った痛ましいリストの死

【7月31日】バイロイトで逝った痛ましいリストの死

⚫️1848年、フランスのオペレッタ作曲家プランケット(ロベール・1860-)が、パリで生まれています。中でも『コルヌビユの鐘』は、彼の代表作で、日本のオペラ前史においても、帝劇などでさまざまに上演された人気曲でした。(誕生日の1月28日の項参照)
⚫️1886年、リスト(フランツ・1811-)が、バイロイトで亡くなっています。彼の弟子であったシュマルハウゼンによれば、「到着から数日後、ベッドから起き上がれなくなった彼は、あまりの苦しみに精神錯乱状態から昏睡状態に陥る。1886年7月31日、午後11時半、死去。死因は、心筋梗塞による進行性心不全だった」(浦久俊彦「フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたか」(新潮新書)より。
(隠れコラムの項参照)
⚫️1977年、水野修孝(1934-)『天守物語』が、テレビ放送で初演。(日本オペラ協会により1979年3月8日に舞台初演)

[コラム]

本当は、オペラ作曲家になりたかった?リスト
リスト(1811-1886)といえば、有名な『ハンガリー狂詩曲』はじめ多くのピアノ曲や交響詩などを書いたハンガリー出身の作曲家で、超絶技巧を駆使する大ピアニストとして知られている。一般には、フランツ・リストと呼ばれているが、これはドイツ語読み。リスト・フェレンツというように、日本と同じく姓・名の順で表記されるのがハンガリー語。彼が最初に書いたオペラは13歳の時に書いた『ドン・サンシュまたは愛の館』というもので、全曲はパリで初演されている。かなりの早熟だったようだ。彼自身は、オペラ作曲家を夢見ていたが、その後の彼は当時ヒットしたオペラの曲を巧みに変奏したりする技巧的なピアノ用編曲を数多く書いたのみで、彼自身のオペラはその後1曲も作曲しなかった。とはいえ、オペラと縁遠かったわけではなく、ワイマールの宮廷劇場の音楽監督としてグルック、シューベルト、ワーグナーなどのオペラを指揮し、近代オペラ指揮法の基礎を築いた一人ともいわれている。とくにリストの次女コージマがビューローの妻となり、その後、ワーグナーの妻となったことから、ワーグナーとはつねに密接な関係を持ち続けていた。ワーグナーの『ローエングリン』の初演指揮者はリスト自身でもあったし、亡くなった場所もワーグナーゆかりのバイロイトであった。


新井 巌(あらい・いわお)

1943年、東京に生まれる。レコード会社を経て広告界に転じ、コピーライターとして活躍。東京コピーライターズクラブ会員。中学生の頃からクラシック音楽にひたり、NHKイタリア歌劇団の『アンドレア・シェニエ』日本初演を観劇したことが自慢の種。フェニーチェ劇場焼失の際には、再建募金友の会を主宰し、現在は「フェニーチェ劇場友の会」代表。日比谷図書文化館で「オペラ塾」を定期的に開催している。オペラ公演プログラムの編集にも携わっている。

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