
サラリーマン、オペラ歌手?小説家?の
香盛(こうもり)修平です。
会社を一歩出ると、あるときは天井に逆さまにぶら下がりサラリーマン社会を俯瞰し、あるときはヨハン・シュトラウス「こうもり」ファルケよろしく、「オペラ」の楽しさを伝える仕掛人、案内役としてへたな文章を書いております。
前回、前々回にヒュー・ビッカーズという方が書いた「珍談・奇談オペラとっておきの話」という本から、まさにとっておきの話を二つ紹介させていただきました。
実際、舞台は生き物ですのでカーテンが下りるまで何が起こるかは誰にもわかりません。
私自身はサラリーマン本業ではありますが、オペラの舞台には数多く出演してきましたので、いろいろな場面に遭遇しています。ちょっとしたことが舞台を台無しにしてしまう可能性もあります。幸い大きなことにならなかったのですが大いに肝を冷やしたことを思い出しました。
原嘉寿子作曲の「脳死をこえて」というオペラに若い漁師という役で出演した時のことです。あまりに重いテーマに出演を悩んだオペラでしたが、作品を知ると、人間の本質から目を背けることのない素晴らしい内容でした。
練習の時から、どうもいやな予感がしていました。練習でも心がざわつき、練習から帰って寝ていると何度も金縛りにあう夢を見ました。
京都府立病院で一人の人生が静かに終わります。脳死判定がなされたのです。腎臓移植第一順位の少女は四国に住んでいますが、海が荒れて船が出ません。もし指定された時間に間に合わなければ病院に控えていた第二順位の適合者に移植されることになります。父親の姿に心打たれた若い漁師は命がけで船を出します。そして子供の命は救われます。
親が船の上で打ち鳴らす団扇太鼓の音とエピローグでの子守歌、嵐の海と静けさを取り戻した海、救われた少女と移植がかなわなかった適合者。臓器を提供した遺族と、新たな人生を歩み始めるもの。明と暗、生と死を表すように様々な対比が人の命の重さを伝えます。
私は嵐の中、移植のために船を出すという役なのですが、その船というのは実際にはへさきしかありません。舞台のセットというのはうまく考えられています。へさきだけの船ですが、客席からは、荒れた海原を真っ直ぐに近づいてくるように見えるのです。
人の命を扱う話ですから出演者も何か普段と違う精神状態になります。船のへさきには娘を抱いた父親がお経を唱え、団扇太鼓を打ち鳴らしながら、子供の無事を祈ります。
練習の時よりもゲネプロの時よりもさらに気合いが入っていることが大きな背中を見ていていると伝わってきます。身体を震わせ大きく大きく打ち鳴らすのです。
親子の後ろに立ち、必死で船をあやつる若い漁師。額には大粒の汗が……。
ただでさえ身体の大きいバリトンの父親役が、腕も折れよとばかりに団扇太鼓を打ち鳴らしたのです。ゲネプロでは45センチほどはあった若い漁師のためのスペースは、本番ではおよそ10センチしかありませんでした。指先に全身全霊を集中し、なんとか船から落下せずに暗転まで耐え続けました。足がピクピクし、額からも首筋からも冷たい汗をながしながら。
もしあの時、後ろに落下していたらと思うとぞっとします。
私はなんとかギリギリセーフでしたが、喜劇が悲劇にもなり、悲劇が喜劇にもなりうるのです。
私はプロの歌い手ではありませんが、幸せなことに舞台は数多く経験させていただいています。私自身が経験したり、目撃した舞台上のあれこれも紹介させていただきます。
いつもながら話がそれてしまいました。それでは「接待オペラ」の続きをお楽しみください。
オペラで愛まSHOW!
■第五回 「接待オペラ?その5」■
もちろん会社ではそんな素振りは一切見せない。上司から聞かれても「口パクでなんとかやっていますよ。営業成果のためですから」とそっけなく答える。
ビデオ、原作小説、楽譜の読み方の本まで買いこみ……。オペラにのめり込んでいるということは「かっこ悪い」ことだと思っていた。ましてソプラノの綺麗なお姉さん方に「いい声をしているじゃないですか」とおだてられながら、練習が終わるたびに飲みにいっているなどということは一切会社では口にできない。
練習に行くことが楽しみになりつつあった。ただ、指揮者と目を合わすことだけは避けていた。私がほとんど歌えていないことを見透かされているような気がしたのだ。
練習は一幕からスタートして、やがて二幕の立ち稽古へと進んでいった。どんどん芝居として仕上がっていくことに目を見張った。演出家の指示を、演出助手の若い女性が稽古場の中を走り回って、実にわかりやすく伝えていた。
二幕は酒場のシーン。演出家の目がキラリと光った。このシーンに相当な思い入れがあるように感じ取れた。幕があがると煙草の煙る酒場に男女がうごめいていている。欲望が、本能が渦巻く。
演出家は合唱団に、男女のペアになり、抱き合うよう指示した。全員が抱き合った瞬間、演出家は大きな声を出した。「全員右四つなんておかしいだろう。日本人はどうしてもこうなる。それじゃ相撲だ。もっといろいろな抱き合い方があるはずだ」
確かに自分も右四つだった。気恥ずかしく少し腰と腰の距離をとりながら……。
どうやらその瞬間から演出家の魔法にかかってしまったようだった。どんどん芝居が面白くなってきた。ペアの女性も急に積極的になって絡み付くような視線を送ってくる。
「何とか雰囲気が出てきたな。じゃあ今からカルメンと抱き合う兵隊を決めよう。カルメンの魅力に引き寄せられて、カルメンが踊っているテーブルの上にフラフラとあがり。カルメンと二人で向かい合う。互いに見つめあいながらゆっくりと二人は一周まわる。兵隊はカルメンのスカートをとり、押し倒す。そして右の耳にキスをし、左の耳にキスをしようとしたときスニガ隊長に突き飛ばされる」
なんという恥ずかしい役だ。
全員が見ている前でそのようなことできるわけがない。ベテランの合唱の人なら堂々とできるのだろうか?
「その兵隊さんは、君にやってもらう」
「えっ?」
続く
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