
サラリーマン、オペラ歌手?小説家?の
香盛(こうもり)修平です。
連載の他に「オペラ観劇して感激した!」といった話を不定期につぶやきます。題して「香盛(こうもり)修平のたわけた一日」
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■番外編その4■~宮本亜門さん演出《魔笛》~
「魔笛」というオペラは私の中ではナンバーワン。これほど楽しめる作品は無い。難解だという人もいるし、ただのメルヘンと捉える人もいるし、フリーメイソンをベースにした研究素材として捉える人もいるし、音楽は素晴らしいが台本は破たんしているという人もいる。要は誰もが気になる作品ということだと思う。
宮本亜門さんには申し訳ないが、正直あえて期待せずに劇場に向かった。どちらかというと古典的な演出が好きな私には、現代演出は好き嫌いがはっきりする。今回はどちらにでるのか?期待しすぎると自分の好みに合わない演出だった時の落胆が大きくなる。
しかし、今回はいい意味で予想が外れた。好きな演出であったし、大いに楽しむことができた。
「魔笛」のポイントは二つだと思っている。一つは「対比」であり、もう一つは「救い」である。
先ずは「対比」。
「魔笛」ではありとあらゆる対比が提示され、モーツァルトの音楽がそれを浮き立たせる。「対比」がどれほど多く提示されるかを、ビジネスでよくやるブレーンストーミング的に羅列してみると面白い。「善」と「悪」、「月」と「太陽」、「男」と「女」、「沈黙」と「おしゃべり」、「火」と「水」、「低音」と「高音」、「高貴」と「下賤」、「白い肌」と「黒い肌」などなど。このことが作品を観る人を混乱させる。「魔笛」を観ると、一見徳の高い地位にいるザラストロでさえ良い人なのかどうか疑問になってくるし、夜の女王もまた同様にヒステリックで悪い女とだけ捉えることはできなくなる。単なる勧善懲悪ストーリではない。
「対比」する対象物がある時、片側からのみ見ると本質わからなくなるということだと思う。このことを受け入れてモーツァルトの音楽を楽しめば「魔笛」は実に愉快な作品だ。
宮本亜門さんの演出は、一つの「対比」を付け加えて、この話をかつてないわかりやすさで表現した。それは「現実」と「仮想」だ。
幕が上がると、なぜかそこは現代のリビング。外で何があったのかはわからないが、精神的に荒れたサラリーマン氏が家に帰ってくる。(ここにも「社会」と「家庭」という対比がさらに加わっている)。子供たちにあたり散らし、奥さんにあたり散らし、父親にもあたり散らす。私もサラリーマンだけに思わず同情したり、「情けないやつだ」と心の中でつぶやいたりしながら舞台を見つめる。
そして、序曲が終わると、サラリーマン氏はリビングに置かれたテレビの画面に飛び込んでロールプレイングゲームがスタートする。
現代の映像技術を駆使してテンポよく「対比」が視覚化されていく。庶民な私は「ネプリーグ」を思い出してしまった。ロールプレイイングゲーム、映像技術、ミュージカル的な隙間のない振付けなどが違和感なく取り入れられている。
ザラストロや夜の女王などの登場人物も、ゲームのキャラクターよろしく適度に歪曲化されている。衣裳やメイクは一見突飛だがよく考えられている。ザラストロやザラストロに仕える僧侶は脳が異様に発達している。夜の女王やダーメは異様に乳房やお尻が大きい。
それによって、たとえばザラストロは「叡智」があり、「徳が高い人物」と平面的に捉えられないように考えられている。見る視点を変え、対比するものがないとすればザラストロをどう評価するか?そう考える楽しみと自由度を観客に与えてくれた。乳房やお尻の大きい夜の女王やダーメも、「女」の強さ、弱さ、魅力、したたかさなど雄弁に表現れていた。
パパゲーノは、いわゆる鳥刺しスタイルではなく、パントマイマーの姿で登場する。タミーノとパパゲーノは「立派な人物」と「本能のままに生きる人物」と対比されるが、宮本亜門さんは、二人は同一人物の中に同居する、相反する二つのキャラクターとして表現したのだと思った。パントマイマーは自分の影であり、分身であり、本当の自分である。この演出をロールプレイングゲームの中で表現したことで全く違和感がなかったし、演出家の手腕だと思う。
このように「対比」というキーワードの中で、どちらがいいとか悪いとか結論をつけることをせず、観客の想像力を邪魔しない素晴らしい舞台だと思う。
今回は様々な「対比」をゲームの中で体験することで、最後に現実社会に戻ったサラリーマン氏は、当たり前の幸せを感じることができるようになる。ゲームの中で、自分の中に存在する複数の意識に気づき、片側からしか見ていなかった世界を別の方向から見つめたことで、少しだけ成長する。
恐らくゲームのことを思い出した時に、そのゲームがすべて自分の意識の中で旅をしたことを気づかせるために、サラリーマン氏の家族がそれとなく姿を変えて、しかし気づいてくれるのを期待するように、それぞれパミーナ、弁者、クナーベとして登場させたのだと思う。
もう一つのキーワードは「救い」
立派に修行をするタミーノが認められ、美しい伴侶を得る。しかしタミーノと対照的なキャラクターのパパゲーノは、修行もろくにまともにこなさず、女が好き、酒がすき、思ったことは口にしてしまう。そんなパパゲーノにもちゃんと可愛い伴侶が見つかる。パパゲーノは「可愛い女房がいて、酒が飲めて、それ以上に何を求める必要があるのか?」と生きることの本質を観客に問いかける。この言葉が重い。
サラリーマン氏も「救い」を得た。「弱い人間という存在」を愛すること、「誰も同じではない」ことを音楽により表現し、「救い」の可能性を提示している。そのことが、この作品が民衆に向けて作られ、未だに愛されている理由だろう。
「救い」の中で重要と思われる「3」という数字を、これから「魔笛」をさらに知る上でもう少し深く知りたいと思う。
♭三つの和音、三つの門、三人のダーメ、三人のクナーベ……。
思うままに、無責任に書き殴ってしまった。一観客の妄想と笑い飛ばしてください。宮本亜門さん演出の「魔笛」は面白かったけれど、まだまだ最高の「魔笛」を求め続けたい。「魔笛」上演において最大の問題である、場面展開の多さを解決する方法の一つとして現代の映像技術の可能性を体感した。モーツァルトの音楽は映像技術を駆使した現代演出でも全く古めかしさを感じさせなく輝いていた。とはいえ、私の大好きなベルインマン監督の映画「魔笛」での、飛び出す絵本のようなアナログの舞台装置による転換による舞台も、まだまだ可能性があると思う。
さらに面白い「魔笛」の登場を楽しみにしている。
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